現代の「戦争論」:「日米安保でアメリカさんが守ってくれる」寝ぼけ話

プーチン氏が6月に訪朝し、金正恩氏と会合、「包括的戦略パートナーシップ条約」を締結した際、それを踏まえ、北朝鮮人民のウクライナへの派兵を要請したとする読売新聞の記事があります。この報に接した際、プーチン氏は相変わらずやり手であると思わず唸ってしまいました。これに対してさすが金正恩氏は「追加の議論が必要だ」として即答を避けたとされます。

プーチン大統領と金正恩総書記 2024年6月20日 クレムリンHPより

金正恩氏のように全権を持っている人物でさえ軍部と妻には気を遣うものです。特に5-6年前までは金氏が若かったこともあり、軍部との微妙な軋轢があったとされました。金氏はその軍部との完全調和と歩調の一致を最重要課題としましたが、今回、いざ前線、しかも祖国防衛ではなく、他国防衛となれば軍部の説得は簡単ではないだろうとみています。

仮に折衷案があるとすれば戦地での「後方支援」的な役割だろうと思います。読売の記事では「今後どうなるか注視している」という形で終わっていることから決定された事実はまだないのかもしれません。

ウクライナ戦争で一時「傭兵」という言葉がよく出てきました。つまりお金で戦地に出向いてもらう人で一種の職業軍人ともいえましょう。ワグネルはアフリカあたりから傭兵を調達していました。傭兵という発想自体が地球規模の経済と情報の発達で今後廃れていくだろうと考えています。インドでは「騙されて」戦地に行かされた息子の親が「息子を返せ!」と叫んでいる報道もありました。19世紀から20世紀までの時代と違い、戦地に行くことが今の人たちには無理難題、ましてや他国のための防衛に命まで国家に預けるという発想はナンセンスになりつつあるともいえそうです。

「戦争論」という本があります。私は読んでいませんが、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツがナポレオン戦争終了後、陸軍大学校の学長を務めていた1816年から30年にかけて執筆された戦争に関する古典的名著とされます。その中に「戦争とは何か」という項があり、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と説いています。なるほど非常に含蓄のある言葉です。

プーチン氏が金正恩氏に迫るその交渉とはまさに政治の継続であります。ということは今のように地球規模で国々が何らかの連携を持つ時代になると当然ながら政治的必然性から他国から「一定の要請」は常に起こりうるとも言えます。スイスのように永久中立国になれば「オタクらが戦争をしようが私たちは参加しない」と言えます。一方でスイスは自国を守るために徴兵制もあるし、国防に対するシビアな考え方を持っています。

日本の「日米安保で戦争保険を買っている」という発想は個人的にはもうないと思っています。それはアメリカが世界の警官を実質的に辞めたとするオバマ政権時代で本質的変化を起こしたと考えるからです。ただ、幸いなことに日本の周辺で戦争が起きていないので派兵といった切羽詰まる事態がほとんどないため、日米安保の解釈が昔のまま継続されているのでしょう。

先日も書きましたが、アメリカ人は昔から戦争は嫌なのです。(戦争が嫌いなのはアメリカ人に限ったわけではないですが。)政治レベルではいかにも「おたくの国を護る」ということを言いますがあくまでも武器や弾薬供与、或いは共同演習に留まるのが現状です。北朝鮮もロシアには大量の武器弾薬を供給しました。日本はアメリカから価格の高い装備品を経常的に購入しています。つまり連携、安保といった言葉の裏には戦争に備える協力体制や「武器ビジネス」連携まではするけれどその先である人民派兵というような政治による強権発動は困難な時代にあるとも言えます。ここが「戦争論」の時代との違いではないでしょうか?

とすれば私からすれば「日米安保でアメリカさんが守ってくれる」などというのは寝ぼけ話以外の何物でもありません。仮に日本が戦争の矢面に立った場合、時のアメリカ大統領は「日本人が先頭に立たないでなぜ、アメリカ人を派兵することができるのだ?」という国内世論の反発に勝てるはずがないのです。これは第二次大戦の際にルーズベルトがアメリカの大戦への参戦に対して最も苦心したところであり、最終的にかなり「作為的に」その方向にもっていったという歴史の裏事情を見てもお分かりいただけると思います。

岸田首相とバイデン大統領 令和6年4月米国訪問時 首相官邸HPより

一方で戦争という定義も以前の地上戦や肉弾戦という狭義の解釈から広義になっており、経済戦争とかサイバー戦争といった新分野での戦争が生まれてきていることも事実です。

個人的には戦争が仮に起きても経済が進歩した国であればあるほど実際の派兵に国民は抵抗し、実質的に戦争は出来ないだろうと考えています。日本人に「赤紙がきたら?」という話をすること自体がおぞましいし、中国人も本当に戦争が出来るのかと言えば武器はあっても精神力はないだろうと思っています。つまり誰にとっても「命が奪われる危険を冒してまで国家に尽くす時代」ではないということです。ビデオゲーム感覚の戦争ゲームで戦争をした気持ちになるだけです。だけど本当に勝てるのは強い愛国心があるか、愛国精神を見せないと非国民扱いするような国家だけであり、日本のような民主的で自由な機運がある国では戦争という発想そのものが不成立になりつつあると考えています。

よっていざそのようになった時の防衛手段を全く違う形で実現させる創意工夫がまずは必要であり、国家の戦略としてここを議論しないことには何ら始まらないし、当然憲法9条の改正論議にも至らないでしょう。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年7月11日の記事より転載させていただきました。