夏目漱石の「草枕」の主人公である画家は、「余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ」というが、実は、「別段食いたくはない」のであって、「あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ」というわけである。特に、「青磁の皿に盛られた青い練羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる」と感じられるのだ。
この「草枕」に描かれた羊羹について、漱石以降の文学者で知らぬものはなかったはずである。例えば、谷崎潤一郎は、「陰翳礼讃」のなかで、「嘗て漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられた」とし、「あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」と書き、更に、「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、恰も室内の暗黒が一個の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」としている。
いうまでもなく、文学的感興としては、夏目漱石は、羊羹を青磁の皿に盛り、光のなかに置いたのに対して、谷崎潤一郎は、陰翳を礼讃するという論考の趣旨から、羊羹を塗り物の器に入れて、薄暗がりのなかに置いた対照の妙にあるわけだが、実業を論じようとする立場からは、両者とも、「別段食いたくはない」といい、「そう旨くない羊羹でも」というように、食品としての羊羹には全く関心のなかったことが重要なのである。
「草枕」の主人公にとって、羊羹は食品ではなくて美術品であり、モノとして食べる対象なのではなくて、鑑賞というコトの対象だから、そもそも羊羹を食べたかどうかすら不明であり、谷崎潤一郎の場合も、食べられたのは、「室内の暗黒が一個の甘い塊」になったものであり、芸術的感興の形象化されたものであって、羊羹自体ではないのである。
また、両者にとって、羊羹は単独で価値あるものとして存立していたのではなく、夏目漱石の場合には、青磁の皿に盛られたものとして、谷崎潤一郎においては、塗り物の器に容れられたものとして、美的鑑賞の対象となっていたのであって、主役は、むしろ、羊羹によって引き立てられた食器のほうだったかもしれない。ならば、賞味されたのは、羊羹というモノではなく、羊羹が創造する美的感興というコトだったのである。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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