大東亜戦争の開戦決定までのプロセスには、未だに多くの謎が残されています。
1941年8月1日付で“突如”としてアメリカが対日石油全面禁輸措置を発動し、それが開戦の直接のきっかけになったというのが通説です。確かに、それまでは急いで開戦準備を進めていた様子は見られません。
次に開戦までの略年表を示しておきます。
1939年9月1日 | ドイツがポーランドに砲撃し、第二次世界大戦が勃発 |
1940年7月~1941年5月 | バトル・オブ・ブリテン(最後はドイツが撤退) |
1940年9月27日 | 日独伊三国同(1940年までにドイツはヨーロッパ大部分制圧) |
1941年6月22日 | 独ソ戦開始 |
1941年7月26日 | アメリカが在米日本資産凍結を実施 |
1941年8月1日 | アメリカが対日石油全面禁輸措置を発動 |
1941年11月20日 | 日本がアメリカに対米交渉要領乙案(最終案)を提示 |
1941年11月26日 | アメリカがハル・ノート(事実上の最後通牒)を提示 |
1941年12月1日 | 御前会議で開戦決定 |
1941年12月8日 | アメリカとイギリスに宣戦布告 |
よく見ると、少し奇妙なことに気が付きます。アメリカが在米日本資産凍結実施を実施したのは1941年7月26日。その直後の8月1日には対日石油全面禁輸も実施し、矢継ぎ早に日本に一方的で高圧的な経済制裁を課しているのです。
(前回:「空気の研究」の研究②:大東亜戦争開戦の理由は行動経済学で分かるのか?)
なぜ対日石油禁輸が必要だったのか
どちらも6月22日に独ソ戦が開始してからまもなくです。これは単なる偶然でしょうか?
実は、独ソ戦と対日石油禁輸は密接に関連しています。
川田稔氏の『昭和陸軍全史3』などによると、1941年当時のスターリンは、独ソ戦をまったく予想していなかったとのこと。このため、同年6月に突如としてドイツから猛攻を受けたソ連軍は、ヨーロッパ最強の機動部隊により、極めて危機的な状態に陥ります。
驚いたルーズベルトは、イギリス支援用の軍需物資を、急遽ソ連向けに振り替えるなどの緊急措置をとり、イギリス政府も了承。同書はこう指摘します。
もし、ソ連の対独戦線が崩れれば、ソ連は屈服し、再びドイツが(1941年5月に終了したバトル・オブ・ブリテンを再開し)イギリス本土侵攻に向かうとみられていたからである。その対英攻撃は前年よりはるかに強力なものとなり、イギリスに本格的な危機が訪れると考えられていた。イギリスの敗北は、アメリカにとってヨーロッパでの足がかりを失うことになり、安全保障上の許容し得ない状況に陥ることを意味した。
この余波で、アメリカの日本への石油輸出が削減されます。それだけではなく、対日石油禁輸措置には、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告するように誘導するという目的もあるのです。
第一次大戦後のアメリカは、ウィルソン大統領が提唱した国際連盟でさえ、議会の猛反対で加盟できなかったように、極めて孤立主義的な態度をとっていました。このため、中立法による制限で、議会の了承なしにはヨーロッパ戦線には参戦できなかったのです。
そこで、苦肉の策として武器貸与法を成立させ、イギリスを援助するために武器を貸し与えていたのですが、それにも自ずと限界があります。これは、現在のアメリカからウクライナへの武器貸与を連想させます。
日米が開戦すれば、日独伊三国同盟を理由として、自動的にドイツはアメリカに宣戦公布。これにより、アメリカはドイツとの戦争に突入し、念願だったイギリスへの援助の大幅強化が可能になるのです。
このように、アメリカやイギリスにとっては、どうしても対日石油禁輸を実施するしかない、極めて切実かつ絶対的な理由があったことになります。
なぜ独ソ戦が始まったのか
では、なぜこのタイミングで独ソ戦が始まったのか。定説はないようですが、2013年に発見された「秋丸機関の研究報告書」が正しいとすれば話は簡単です。下の図にあるように、1941年6月に独ソ戦が開始された時点で、ドイツの生産力は既に限界に達しており、ソ連の生産力が喉から出るほど欲しかったからでしょう。
独ソ戦が始まったのには、別の理由もあるようです。それは、「バトル・オブ・ブリテン」でドイツが敗退したからとされています。
当初のヨーロッパ戦線では陸戦が中心で、1939年9月の開戦以来、ドイツ機動部隊による連戦連勝が続き、短期間でヨーロッパ大陸のほぼ全土を制圧しました。
ついにドイツはイギリスにもその矛先を向け、1940年7月にバトル・オブ・ブリテンを開始します。
ちなみに、1941年の地図を見ると、当時のヨーロッパ大陸はほとんどドイツ占領下となっています。
イギリスはヨーロッパと陸続きではないため、当然ながら戦車は使えず、ドイツの誇る名戦闘機メッサーシュミット、そしてイギリスのスピットファイアーとの空中戦対決となりました。
バトル・オブ・ブリテンの勝敗を決めたもの
しかし、メッサーシュミットの性能を過信したドイツは見事に失敗。イギリスのレーダーが優秀だったなど、いろいろな理由が指摘されていますが、最大の理由はメッサーシュミットの航続距離が短か過ぎたことでしょう。
なにしろ、メッサーシュミットは、イギリス上空ではせいぜい30分しか戦えなかったのです。いくらパイロットやメカの性能が勝っていても、イギリスが誇るレーダーで探知して待ち構え、30分間もちこたえればいいのですから、ドイツが制空権を取れるわけがない。
もっとも、戦闘機に補助燃料タンクを搭載すれば、航続距離は大幅に伸びます。だから、性能で勝るメッサーシュミットと補助燃料タンクを組み合わせれば、ドイツはスピットファイアーに絶対に勝てたはず。なぜ使わなかったのかは謎ですが、ヒトラーがメカや戦略に“素人”だったからもしれません。
以上のことから分かるのは、第二次世界大戦の「メイン」はあくまでヨーロッパ戦線で―これは当時の国力、軍事力、人口から言って当然ですが―アジア・太平洋はさして重要ではない「サブ」に位置付けられていたということです。
だから、いくら日米関係を緻密に分析しても、明快な結論は出ません。その反対に、ヨーロッパ戦線のサブと考えると、意外と簡単に理解できるようです。
【関連記事】
・「空気の研究」の研究①:大東亜戦争の終戦は「空気」で決まったのか?
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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。山本七平氏の熱心な読者。社会人になってから、井沢元彦氏と池田信夫氏の著作に出会い、歴史に興味を持つ。以後、独自に日本と海外の文献を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。
『「空気の研究」の研究:ゲーム理論と進化心理学で考える大東亜戦争開戦と御聖断のサイエンス』