古代出雲と太陽信仰(後編)

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「古代出雲と太陽信仰(前編)」では弥生時代における古代出雲の【太陽信仰】について論じましたが、後編では弥生時代から古墳時代への移行期における古代出雲の太陽信仰について大和の太陽信仰と併せて論じていきたいと思います。

(前回:古代出雲と太陽信仰(前編)

これらを論じる前に、議論の前提となる日本における春夏秋冬と節分の概念について簡単に述べておきたいと思います。

日本における春夏秋冬と節分

古代の人々が生存して行く上で極めて重要であったのは、気温変化に密接な影響を及ぼす太陽の運行を把握することであったと考えられます。

彼らが最初に把握したのは、太陽が最も北方から昇って最も北方に沈む【夏至】と、太陽が最も南方から昇って最も南方に沈む【冬至】であり、次にその中間点で太陽が真東から真逆の真西に沈む【春分】と【秋分】を把握したものと考えられます。

しかしながら、古代人が本当に知りたかったのは、疫病のリスクに晒される「気温が最も高くなる季節」と、凍死のリスクに晒される「気温が最も低くなる季節」であることは想像に難くありません。その季節はいつかと言えば、冬と春を分ける日(【立春】の前日:冬至と春分の中間)と夏と秋を分ける日(【立秋】の前日:夏至と秋分の中間)の季節です。

現代人にはピンとこないのですが、過去の日本で用いられた節月区切りにおいて「夏は暑く冬は寒い」という言い方は正しくなく、春夏秋冬の概念は次の通りです。

【春】最も寒い季節から徐々に気温が高くなり、最も過ごしやすい季節に至るまで
【夏】最も過ごしやすい季節から徐々に気温が高くなり、最も暑い季節に至るまで
【秋】最も暑い季節から徐々に気温が低くなり、最も過ごしやすい季節に至るまで
【冬】最も過ごしやすい季節から徐々に気温が低くなり、最も寒い季節に至るまで

この春夏秋冬の季節を分かつ日を【節分】と言います。現代人は節分というと冬と春を分ける節分を思い浮かべますが、実は1年に節分は4回あるのです。ここで、この概念を十二支とともに図化すると次のようになります。

冬と春を分ける最も寒い節分(立春の前日:現在のグレゴリオ暦の2月3日頃)は丑と寅の間(艮=うしとら)であり、夏と秋を分ける最も暑い節分(立秋の前日:現在のグレゴリオ暦の8月7日頃)は未と申の間(坤:ひつじさる)です。

十二支は時間と共に方位を表すことから、北東(艮)の方位を鬼門、南西(坤)の方位を裏鬼門と言います。古代人は最も死亡リスクが高い季節を表す方位を鬼門・裏鬼門として畏れていたのです。

そして最も過ごしやすい春と夏を分ける節分(立夏の前日:現在のグレゴリオ暦の5月5日頃)および秋と冬を分ける節分(立冬の前日:現在のグレゴリオ暦の11月7日頃)に対応する方位を陰陽道では神門・裏神門と呼びました。

この邪悪/神聖な季節を古代人が【日出】【日没】の方位によって把握していたことは想像に難くありません。

日本列島が位置する緯度では、鬼門の季節、太陽は東から南に約20度回転した方位から昇り、西から南に約20度回転した方位に沈みます。一方、裏鬼門の季節、太陽は東から北に約20度回転した方位から昇り、西から北に約20度回転した方位に沈みます。電灯がなかった時代、古代人は太陽が昇り沈む方位を確認することがルーティンワークであったものと推察されます。

さて、以上の知識をもった上で、弥生時代から古墳時代への移行期において、出雲と大和で本格的な太陽信仰があったと考えられる蓋然的な根拠について示したいと思います。

出雲と大和の位置関係

まず、着目するのは出雲の意富郡(おう)に位置する熊野大社(熊野坐神社)です。出雲で最も有名な神社といえば出雲大社(杵築大社)を思い浮かべる人が多いと思われますが、実は、出雲風土記によれば、出雲で最も格式が高い神社は、出雲大社(出雲二之宮)ではなく、熊野大社(出雲一之宮)なのです。熊野大社は、出雲の熊野山の【磐座(いわくら)】に熊野大神を祀ったものです。

ここで、熊野大神とは出雲の王族を想起させる素戔嗚尊(=スサノオ)を指すと言われています。また、磐座とは、神が降臨して鎮座するとされる岩体であり、神が鎮座する建物である【神社】という概念がない時代から存在する最も原始的な礼拝施設です。

この磐座から立秋の太陽(厳密には「夏と秋の節分の太陽」ですが、簡便のため以下では概略的に「立秋の太陽」と表現します)が沈む方位に位置しているのが、伊弉諾尊(=イザナギ)の黄泉国(よみのくに)神話で知られ、弥生時代の出雲の王が崇拝した聖地と考えられる猪目洞窟なのです(前編参照)。

私はこの位置関係は偶然ではなく意図的であると考えます。なぜなら、後に山麓に遷座された熊野大社の社殿も概ね猪目洞窟を遥拝する方位を向いているからです。これは、出雲の王が、夏至・冬至の日出日没方位とは異なる新たな太陽信仰を始めた可能性があります。そしてそれは同時に出雲の王族の墓所と考えられる猪目洞窟をもターゲットとした祖霊信仰である可能性もあります。

さて次に、出雲の王をモデルにしたと考えられる大国主命(大己貴命=オオクニヌシ)の国造り神話に着目します。大国主命は日本書紀の正伝には、素戔嗚尊の子であると書かれています。

その後、少彦名命が、出雲の熊野の岬に行かれて、ついに常世に去られた。これから後、国の中でまだ出来上がらない所を、大己貴命が一人でよく巡り造られた。ついに出雲国に至って、揚言していわれるのに「そもそも葦原中国は、もとから荒れて何もない広い所だった。岩や草木に至るまで、すべて強かった。けれども私が皆くだき伏せて、今は従わないという者はない」と。そして「今この国を治めるものはただ私一人である。私と共に天下を治めることができる者が他にあるだろうか」と。そのとき不思議な光が海を照らして、忽然として浮かんでくるものがあった。「もし私がいなかったら、おまえはどうしてこの国を平げることができたろうか。私があるからこそ、おまえは大きな国を造る手柄を立てることができたのだ」と。この時大己貴神は尋ねていわれるのに、「ではおまえは何者か」と。答えて「私はおまえに幸いをもたらす不思議な魂・・・幸魂・奇魂・・・だ」と。大己貴神が「そうです。分りました。あなたは私の幸魂奇魂です。今、どこに住みたいと思われますか?」と。答えていわれる。「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をその所に造って、行き住まわせた。これが大三輪神である。

(『日本書紀』講談社学術文庫)。

素戔嗚尊の子孫で国造りをした大国主命が、出雲を去った少彦名命(=スクナビコナ)の代わりとなる国を治める新たなパートナーを探していた時、海から大国主命自身の魂(愛と知性をもたらす幸魂と奇魂)が現れ、自分を大和の三輪山に祀るよう要求し、大国主命はこれに応じました。この神が三輪山に鎮座するとされる大物主神(=オオモノヌシ)です。あまりにも唐突な話の展開ですが、これには深い宗教的な意味があると考えます。

というのも大物主神の磐座となった三輪山は、猪目洞窟から熊野大社(磐座)を結んだ延長線上にあるからです。つまり、猪目洞窟および熊野大社から見て三輪山は立春の日出方位に位置しているのです。

特に重要なのは、この線上には古墳時代の到来直前に大和に突然現れた都市である纏向遺跡などが位置していることです。また、伊弉冉命(=イザナミ)の墓所と言われる比婆山、太古に大己貴命(大国主命)を祀っていたとされる中山神社(美作国一之宮)、生駒山系の麓に位置する龍田大社(官幣大社)などが位置しています。

出雲と大和の祭祀方法の同一性

さらに、三輪山周辺を詳しく見ると、当時の重要インフラが次のように配置されています。

まず、宮殿と考えられる建物跡が発掘された纏向遺跡、【前方後円墳】のプロトタイプとされる纏向石塚古墳(3世紀初頭)・纏向矢塚古墳(3世紀前半)・纏向勝山古墳(3世紀前半)ですが、これらは三輪山頂から立春の太陽が昇る光景を遥拝できる場所に位置します。

つまり、立春にこれらの地点からは、「ダイヤモンド富士」ならぬ「ダイヤモンド三輪山」を観測できるのです。このことは、特定の季節の日出日没方位と信仰対象を一致させて遥拝する出雲のスタイルと一致します。

以上のような客観的事実から、あくまでも一つの仮説ですが、太陽信仰と祖先信仰を併せもつ出雲の王族の一部が、出雲から見て特別な位置に存在する三輪山の周辺に移り住み、それが大和の大王家に発展した可能性が考えられます。

彼らが礼拝したのは、彼らの祖神であるはずの天津神(高天原の神々)ではなく、あくまで出雲の国津神(地上の神々)である大物主神なのです。

特に興味深いのは、纏向古墳群で最も古い纏向石塚古墳が、厳密に立秋の日没方位に位置する出雲に向かって遥拝する幾何学的構造になっていることです。

前方後円墳は、後円部に安置された埋葬者を前方部から礼拝する宗教インフラです。論理的に言えば、纏向石塚古墳は、①纏向の初代の王と思われる人物、②熊野大社に鎮座する素戔嗚尊、③猪目洞窟に安置された出雲王家の祖霊(伊弉諾尊のモデル)、そして④立秋に日没する太陽を同時に遥拝できる施設なのです。ちなみにこの遥拝の方位は、はからずも考古学の専門家が纏向石塚古墳の発掘調査時に古墳の主軸として設定したメインのトレンチの方位とも完全に一致しています。

その後、纏向では引き続き東田字大塚古墳(3世紀前半)・ホケノ古墳(3世紀中期)が築造され、満を持して古墳時代の幕開けを告げる大型の前方後円墳である箸墓古墳(3世紀後半)が築造されるに至ります。ちなみにこれらの古墳の長軸は、ホケノ山古墳の北西方位を除けば、いずれも特定の季節の日出日没の方位と一致します。

以上の客観的事実から、纏向王朝には、信仰対象を特定の日出日没方位と一致させた古代出雲王朝と同様のハイブリッドな太陽・祖霊信仰が存在していたことが伺えます。ちなみに、この纏向を邪馬台国、箸墓古墳を卑弥呼(日御子=ヒミコ)の墓に比定する議論が展開されているのは周知の事実です。

また、記紀の記述を素直に当てはめると、箸墓古墳に埋葬されている人物は、実在の可能性がある最初の天皇である崇神天皇(ハツクニシラス)の記事に登場する倭迹迹日百襲姫命(=ヤマトトトヒモモソヒメ)ということになります。日本書紀に次のように要約されるエピソードがあります。

三輪山の麓に都をおいた崇神天皇の時代には疫病と凶作が蔓延していました。崇神天皇は、天照大神(=アマテラス)と倭大国魂神を宮中に祀りましたが、神威が強かったことから、宮中外に祀ることにしました。このうち天照大神が祀られたのが檜原神社(日原神社=ひばら)です。

崇神天皇が災害の要因を占っていたところ、三輪山の大物主神が倭迹迹日百襲姫命に憑依して自分を祀るよう要求しました。さらに大物主神は崇神天皇の夢の中にも登場し、自分の子の大田田根子(意富多多泥古命=オオタタネコ)に自分を祀らせるよう神託しました(日本書紀)。

またこのとき、朝日が向かい夕陽が隠れるところである龍田にも祀るよう神託しました(延喜式・龍田風神祭祝詞)。これが南北に連なる生駒山系の東側の麓に位置する龍田大社です。檜原神社と龍田大社は、出雲と三輪山を結ぶ線上に正確に位置しています。

なお、日本書紀では大田田根子による祭祀により疫病と凶作は収まったとされています。倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となりますが、いずれ関係は破局し、箸で陰部をついて亡くなります。この倭迹迹日百襲姫命の墓所とされるのが箸墓古墳です。

箸墓古墳は厳密に立秋の日出方位を遥拝するようレイアウトされています。但し、その方位に存在するのは、三輪山ではなく穴師山です。また、宮内庁に崇神天皇陵と比定されている行燈山古墳(4世紀前半)も厳密に冬至の日出方位を遥拝するようレイアウトされており、その先には穴師山が存在します。このことから当時、三輪山だけでなく穴師山を磐座とする信仰が存在したことが伺えます。

ちなみに崇神天皇の次代の垂仁天皇が、出雲から呼び寄せた力士である野見宿祢が最初の相撲をとって勝利したとされる地(相撲神社)もこの線上付近に存在します。

さらにこの地において、箸墓古墳・行燈山古墳と並ぶ規模を持ち宮内庁に景行天皇陵と比定されている前方後円墳の渋谷向山古墳(4世紀後半)は、厳密に立秋の日出方位を遥拝するようレイアウトされ、その先には龍王山が存在します。同じ方位の長軸を持つ纏向矢塚古墳も纏向勝山古墳もこの線上付近に存在するため、龍王山も磐座として古くからの信仰対象であったものと考えられます。

この他、三輪山自体を神体として大物主神を祀る神奈備方式の大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿は、夏至の日出方位に三輪山を遥拝する位置に存在します。ただし、この拝殿がいつ創建されたかは不明です。

以上要するに、3~4世紀の纏向周辺では、前方後円墳の長軸が特定の季節の日出日没の方位と一致しており、その先に信仰対象の磐座の存在が認められます。この太陽と祖霊を合致させたハイブリッドな祭祀方法は、弥生時代の出雲と同じスタイルであり、この地に築かれた最初の古墳である纏向石塚古墳は、出雲の方位を遥拝するようレイアウトされています。

崇神・垂仁紀には、出雲関連の登場人物も頻出することから、邪馬台国を含めた大和政権は、出雲の王族の一部であり、後に出雲の本家をも凌駕した存在になっていったとする仮説が一つのアブダクションとして蓋然性をもつものと考える次第です。

そもそも、魏志倭人伝から読み取れる政治を行う男王と祭祀を行う女王の存在は、既に出雲王族の【四隅突出型墳丘墓】である西谷3号墓に認められます(前編参照)。崇神天皇と倭迹迹日百襲姫の関係、垂仁天皇と倭姫の関係もこの関係に類似しています。

いずれにしても、従来の遺物の考古学的考察に加え、インフラに関する宗教学的考察が、文字が存在しなかった時代の事実の解釈には重要であると考えます。

イザナギ黄泉国神話の創造

前編では、夏至日没-冬至日出ラインに日御碕神社(日沈宮)・出雲大社(天日隅宮)・西谷墳墓群などが正確に直線状に並ぶことを示しましたが、このラインを延長すると、いくつかの著名な宗教インフラが並ぶことがわかります。先述の立秋日没-立春日出ラインと併せて表示します。

記紀には、イザナギが、亡くなったイザナミを黄泉国に訪ねてゾンビ化したイザナミから必死に逃げたとする黄泉国神話が記されています。

この線上にはイザナミ墓所とされる御墓山、黄泉国の入り口(黄泉比良坂)を連想させる鍾乳洞を磐座とする日売坂鍾乳穴神社(日咩坂鐘乳穴神社)、イザナギがイザナミに致命傷を与えた軻遇突智(=カグツチ)を斬るとともにゾンビ化したイザナミから逃げる際に追手を振り払った十握剣を祀ったとされる石上布都魂神社(伝・備前国一之宮)、イザナギとイザナミを祀る伊弉諾神宮、イザナミを最初に葬った(日本書紀)とされる磐座である花の窟神社が位置します。

これらはあくまで人間が任意に設置した祭祀施設であり、後世に天皇を神格化する目的で神聖なラインに沿ってストーリー付けが行われた可能性があります。

例えば、石上布都魂神社が位置する赤磐市は古代からの桃の産地であることが考古学的に判明しており、イザナギが追手に桃を投げつけたとする古事はここから生まれた可能性があります。花窟神社には、流紋岩質凝灰岩で構成されるマッシヴな巨岩が露出しており、まさに黄泉国の入り口に蓋をする千引岩の様相を呈しています。

もちろん記紀神話はフィクションであり、このようなストーリーを誰が描いたかですが、私は、6世紀に欽明天皇に出雲に派遣されて西谷墳墓群に隣接した神門郡日置郷に居住した日置部(日置氏=ヘキ・ヒオキ)の存在が極めて怪しいと考えています。

日置部は、日奉部(日祀部=ヒマツリ)とともに、古代天皇を太陽祭祀によって権威づけた【部民】(王への従者)とされており、実際に伊勢や九州南部など日本各地でその活動形跡が伺えます。日置部の存在の初出は垂仁紀ですが、この記事の出雲-三輪山ラインの形成に関与した可能性や、前方後円墳の座取り、日本全国にわたる官幣大社設置のグランドデザインに関与した可能性も十分に考えられます。

記紀において、出雲大社の創建は天孫降臨前、伊勢神宮の創建は垂仁天皇の時代とされますが、実際には飛鳥時代に創建された可能性が高いとされています。何らかの作家が必ず存在したはずです。

なお、日御碕神社・出雲大社・西谷墳墓群は、出雲の神門郡に位置します。この神門郡の「神門」とはこの地を治めていた豪族の神門氏(=カンド)の固有名詞ですが、大和から見ると北西方位の【神門】にあたります。これは偶然のダブルミーニングと考えられます。

日御碕神社・日沉宮の創建

日御碕神社御由緒略記に日沉宮(ひしずみのみや)の由緒について次のような記述があります。

日沉の宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島ともいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと伝う。

又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沉宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来タ日を餞け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。

そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に神殿が造宮された(出雲国風土記に見える百枝しぎ社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。

この由緒を見る限り、平安時代に村上天皇の勅命により、経島の日沉宮に鎮座していた天照大神を日御碕神社の日沉宮に遷座したことになっていますが、それは表向きで、実際には天照大神を日御碕神社の日沉宮に勧請した(分霊を祀った)というのが真実であると私は考えます。実際、現在に至っても経島に鳥居が残っていて、神事が行われているからです。

全く公表も指摘もされていませんが、日御碕神社の日沉宮の中心軸は、経島の日沉宮に正確に向いていて、その方位は立秋の日没方位です。

つまり、日御碕神社の日沉宮は、天照大神を容易に参拝できる施設であると同時に、経島の日沉宮を正面から厳密に遥拝できる施設なのです。

日御碕神社では、立秋前日の節分(8月7日)の夕方に神幸祭(神が神輿で移動する一般的な神事)と称して、日御碕神社の日沉宮に鎮座している天照大神の御神体を神輿で経島の対岸の御旅所まで移します。実はこの御旅所も経島の日沉宮と日御碕神社の日沉宮を結ぶ線上にあります。

この日、この御旅所からは経島の日沉宮に沈む太陽が観測できるはずです。日御碕神社はこの事実をなぜか公表しませんが、明らかに認識しているはずです。なぜなら、日御碕神社の宮司を現在に至るまで代々努めてきたのは、紛れもない日置部の子孫である小野氏であるからです(参照)。

信仰上、天照大神は、毎年この日に経島(別名「日置島」)の日沉宮という壮大な磐座に降臨し、小野氏の祭祀を受け続けているのです。

伊勢神宮が日本の昼を守り、日沉宮が日本の夜を護るという天平7年乙亥の勅は、聖武天皇が出したはずですが、実はこの年に日本全国で天然痘が大流行していました。聖武天皇は、崇神天皇と同様、神頼みをしたものと考えられます。

結語

今回の前後編の記事で紹介した内容は、日本の権力者が時代を変遷しながらも継続した本格的な太陽信仰の始まりであると考えます。重要なポイントは、夏至/冬至のみならず、立春/立秋の日出日没の方位への信仰がこの時代に卓越していたことです。

このようないわゆる【レイライン】は、時空を超えて存在しますが、残念ながら、日本の歴史学において、レイラインの存在は、馬鹿げたものであると一蹴されるのか、ほとんど議論されません。もちろん「逆五芒星」などといった論理に適わないレイラインが陰謀論者を中心に取沙汰されている現状は残念といえます。

しかしながら、太陽を国家の象徴とし、文字の存在しない時代から太陽信仰と祖霊信仰を併せた特徴的な宗教スタイルを持つ日本において、重要施設や宗教インフラの幾何学的な構造やレイアウトが特定の太陽の方位と一致している状況を軽視するのは、学術的な態度とは言えません。

ちなみに前方後円墳の分布が大阪平野に移ると、日出日没方位との関係が90度回転します。文献が存在しない時代に土器の違いから為政者を推定するのも重要ですが、歴然とマクロに残された宗教的メッセージの違いを論拠に為政者を推定することも重要であると考えます。アブダクションを展開し、蓋然性を持って真実を追究する歴史学は、論理的に「~ではあるまいか」のフレームワークを超えることはできないのです。

また別の機会に、異なる時代の異なる場所を対象に、客観的事実を基にして、同種の記事を書きたいと思う所存です。