クルスク作戦はなぜロシア・ウクライナ戦争の新しい段階なのか

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ロシア・ウクライナ戦争は、世界的に大きな注目を集めているが、実は概念設定のレベルから見られる混乱が、いまだに解決されていない。

私は「ロシア・ウクライナ戦争」という概念を、その中立的な安全性から好むが、日本でより一般的に流通している「ウクライナ戦争」という概念は、実は大多数のウクライナ人が嫌っているものである。彼らは、「戦争を仕掛けたのはロシアでウクライナではないのに、なぜ『ウクライナ戦争』と呼ばなければならないのか?」と言う。

「ウクライナ戦争」という名称の問題性

日本で「ウクライナ戦争」という名称が好まれるのは、戦争がウクライナの領土で行われているからだろう。だが満州が主な部隊であった戦争だからといって「日露戦争」を「満州戦争」と呼び変えよう、とする提案は、聞いたことがない。

戦争の名称に絶対規準などない。全ては、何をもって、その戦争の本質とみなすか、という観察者の視点に委ねられている。

なおウクライナ人と会話をする際には、必ず「2022年以降のロシアの(ウクライナに対する)全面侵攻」と言わなければならない。「ロシアの侵略」が2022年2月に始まったと語るのも、タブーである。なぜならウクライナ人にとっては、ロシアの侵略は2014年に始まったものだからだ。クリミアが併合され、東部地域でドンバス戦争が始まった年である。

「ドネツク人民共和国」及び「ルハンスク人民共和国」の樹立を目指した勢力とウクライナ政府との間で行われたドンバス戦争は、一般には「内戦」と扱われることが多い。しかし当初はそれを認めていなかったロシア政府も、偽装したロシア兵がドンバス地方に入って戦っていたことを認めている。したがって「国家間戦争」でもあった。

いったいどっちが正しいんだ?と問うのは、恐縮ながら素人の方である。世界で起こっている戦争のほとんどが、内戦の要素と、国際戦争の要素の双方を持っている。「内戦」「国家間戦争」は、分析的理由で用いられている概念設定にすぎない。「ここは内戦の要素がある」「この観点から言うと国際紛争の性格が相当にある」といった形で、戦争を理解していくために、複数の概念装置が用いられている。

2022年2月24日以降、ドンバス戦争はどうなったのか? 大きな戦争の勃発に圧倒されて終了となったのか? あるいは吸収統合されたのか? ひょっとしたら実はまだ二つの戦争が併存して起こっているわけではないのか?

これらの問いは、簡単には回答できない深い問いである。ただ、これだけの注目を集めているにもかかわらず、あるいはだからこそ、これらの問いは回避されてしまう傾向がある。

私は、ドンバス戦争は終わっていないと考えている。これは危険な思想である。なぜならこの考えを表明すると、たとえば日本のような国では、「篠田は、ドネツク人民共和国やルハンスク人民共和国の独立主体性を認めるのか!遂に正体を現したな、隠れ親露派め!おーい、みんな、篠田は親露派だ!陰謀論者だ!プーチンの味方だ!みんなで非難しよう!」といった糾弾に遭遇する可能性があるからだ。

だが仕方がない。22年2月にドンバス戦争が終了になった、と言える根拠がない。続いていると考えるべきだ。

それでは「ドンバス戦争」は、「ロシアの全面侵攻」に吸収統合されたのか? あるいはまだ併存しているのか? 私は、吸収統合がより実態に即した概念構成だが、それは「ドンバス戦争」の要素が完全に消滅したことを意味しない、と考えている。なぜならドンバス戦争をドンバス戦争として引き起こして継続させた要素は、まだ存在しているからだ。

ロシアは、二つの「人民共和国」の併合を宣言して、全面侵攻を開始した。大きな状況変化であった。しかし併合は、むしろ「ドンバス戦争」の諸要素を、「全面侵攻」が引き継ぐ形で行われた、と言う方が、妥当だろう。

22年2月に新しい劇的な戦争が起こったことは事実である。ロシアがウクライナの首都を陥落させようとしたのだから。

しかし実はロシアのキーウ陥落作戦は、22年4月初旬には打ち切りになった。その後2年半にわたって同じ戦争と思われるものが続いていることを考えると、1.5カ月間というのは、非常に短い特殊期間であった、と言うことができる。

その後、「全面侵攻」は、「ドンバス戦争」の諸要素を中核に抱えこんだ形で展開した。戦争は、拡大東部地域に限定される形で行われたのだ。特に2022年末までにハルキウとヘルソンをウクライナ軍が奪回(ロシア軍が両地域から撤退)してからは、「全面侵攻」は「拡大展開ドンバス戦争」としての性格を色濃く持つことになった。

今回のクルスクでの戦いは、明らかに「拡大展開ドンバス戦争」とは質的に異なる新しい段階を示している。決定的な事実は、ウクライナ軍が積極的に新しい戦線を開いた、ということである。これによって「拡大展開ドンバス戦争」とは言えない戦局が、二年ぶりに生まれてきた。いわば「新たな全面侵攻」に近い形が、ウクライナ側の積極攻勢によって、生まれてきたのである。

ロシア軍は、塹壕を作って原子力発電所と州都クルスクを守る体制に入っている。ウクライナ軍を国境の外に押し出すのは、時間をかけて遂行を目指す作戦となるようだ。ロシア側は、ウクライナの越境攻撃の規模を認識し、それに対応した体制を作ろうしている。

ウクライナ北部/ロシア南部国境付近クルスク方面で、新しい本格的な戦線が開かれようとしているのである。

だがもしそうなると、相当程度の部隊を集結させたロシア軍が、優勢になった場合、国境線で止まる保証がなくなる。ウクライナは、ひとたび敗走を始めれば、首都に近い戦線での決壊を見ることになり、非常に危険な状態に陥る。

クルスクの国境は、距離では、モスクワよりも、キーウにより近い。

クルクスの戦いは、ロシア・ウクライナ戦争の新しい一段階を作り始めている。