日本人はなぜ、ここまで他人に共感できなくなったのか

先週発売の『表現者クライテリオン』8月号でも、連載「在野の「知」を歩く」を掲載していただいています。綿野恵太さんに次ぐ2人目のゲストは、コンサルタントの勅使川原真衣さん。

勅使川原さんとの対談は、Foresight に掲載のものに続いて2回目になります! 従来もこのnote にて、記事を出してきました(こちらこちら)。

與那覇潤×勅使川原真衣「能力主義はなぜ生きづらいのか」:「それってあなたの感想ですよね?」への対処法:論壇チャンネルことのは | 論壇チャンネル「ことのは」 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
近代社会の前提とされてきた「能力主義」が、実は格差を正当化しているのではないか。客観的なデータは常に「あなたの感想」=主観より正しいのだろうか。外資コンサルティングファームでの勤務経験から能力主義を批判する勅使川原真衣氏と、評論家の與那覇潤氏が、人間の「能力」の本質に迫った。(構成・名古屋剛)

掲載誌で改めて読み直したのですが、今回新たに提起した色んな論点のうち、いちばん大事なのはやはりここですかね。

與那覇:日本人が個性を求めるのは、軽薄な流行とも言い切れなくて、むしろ周囲から来る同調圧力に「合わせたくない私を、正当化してくれ!」という切実な要求でもあるのでしょう。しかし、それと能力主義との結びつきがこじれてしまった。
一方の極には、「俺は海外で成功した超一流の個性だから、周りに合わせません」。他方には「私の発達障害は『個性』なので、合わせられません」みたいな。それぞれに事情はあれど、個性の主張が「他人との対話を閉ざすこと」だと錯覚されてはいないでしょうか。

勅使川原:おっしゃる通りですね。結局いろいろなイデオロギーがあっても、誰の話を聞くべきで、誰の話は無視していいのかというのを決めてきたのが能力主義だと思います。つまり、ケアすべき範囲を「絞る道具」が能力主義であるということです。

114頁(強調は今回付与)

「発達障害バブル」はなにを残したのか|Yonaha Jun
2月16日に発売された『表現者クライテリオン』の3月号に、浜崎洋介さんによる私のインタビューの後編が掲載されました。前編の記事内容についてはこのnote でも、魯迅や太宰治を論じつつ補足してきたとおりです。 後編の内容も多岐にわたりますが、通底するモチーフは、今日の日本ほど徹底的に「断片化」されてしまった社会は他にな...

色んなところで書いてきたんですが、平成末に始まり令和に入って奔流のように噴き出したのが「ケアをケチろう主義」なんですよね。人間どうしで配慮するなんてダルい、だからもうAI に全部決めてもらおう、どうせ遺伝と脳で人生決まってるんだから別に冷たいことじゃない、うおおおお要らない老人は集団切腹で解決! とかね。

まぁひとことで言えば、バカだし、そんなバカを守るために大学の自治とか言ってた「在官」の同業者は、バカの上塗りですな(笑)。そこまでして、こ〜んな世の中を作る「権利」を守りたいですかねェ……。

大学の自治を守ったら、なぜか
缶チューハイをCMできないタレント」が生まれたんですってw。
このAAを久々に思い出しました

しかし、文字どおりにあらゆる人をケアしていたら、私たちがおかしくなってしまうのも事実なんですよね。ウクライナやガザだけじゃなく、世界には悲惨な状態でケアを必要としてる人が山のようにいて、その全員にひとりずつ心を向けて「あぁ、あの人を助けてあげない私は人でなしだ」と落ち込んでいたら、メンタルが壊れてしまう。

なので、よかれ悪しかれ人間の生態ないし文明には、「これくらいの範囲をケアしておけば、その外はまぁ、別にいいですよ」と感じさせるしかけが、いろいろ備わっている。

家族っていうのは、ひとつの典型ですね。自分の子供しかケアしないなんて、恥ずかしくないのか! 誕生日のプレゼントはやめて全額ガザに募金しろ!……とまで言う人は、さすがにいない。

ネーション(ナショナリズム)はその擬似的な拡張形態で、とりあえずは同じ国の「同胞」をケアしましょう。だからって他の国を無視はしないけど、それは順番として二番手でしょう、とするコンセンサスを作ってきた。

ところが、日本ってまだわりと豊かだから「家族なし」でもそこそこどうにかなるし、愛国主義を鼓吹して「敵軍から祖国を守れ!」みたいな事態もいまのところ避けることができているので、それらの装置が存在感を失っているんですよね。

結果として、ケアする範囲を絞る装置として能力主義だけが突出し、しかもその能力はどうやって測るのかといえば「YouTube再生何回」「フォロワー総数何人」「いいね率何%」……といった量的指標に還元されちゃったんですな。すべてが数値で示される、『過剰可視化社会』のなかで。

過剰可視化社会 | 與那覇潤著 | 書籍 | PHP研究所
数値化、エビデンス、タグ化が求められ、価値の「見える化」が過剰に進行するコロナ後の社会を考察。千葉雅也氏などとの対談も収録。

「バズった人だけがケアされる」なんて、まさに悪い意味での大衆社会の究極系ですけど、そうした状態をどう脱して、ひとりが全員をケアできないのはしかたない、しかしケアを「一切得られない」人もまたいない、という穏当な地点に持っていくのか。

はっきり言えば、それだけがいま考えるべき問題なんですよね。コロナだ! ウクライナだ! 宗教2世だ! ガザだ!……云々は、その瞬間だけ盛り上がる「ケアジャック」みたいなもので。現に1〜2年も経てば、最初は声高に騒いだ媒体ほど、さっさと次の話題に乗り換えてるじゃない(苦笑)。

ウクライナとガザのさなかに、8月15日をどう迎えるか|Yonaha Jun
年に一度の「戦争を振り返るシーズン」も、実に79回目。不幸なことに、ウクライナとガザの双方で、続く戦争が進行する中で迎える夏である。 昨秋から気にかけてきたが、ウクライナはついにロシア領内へ侵攻する冒険的な賭けに出た。またイランがイスラエルへの大規模報復に踏み切れば、文字どおりの「第五次中東戦争」となろう。 ...

そうした「本当の問い」を、考える糸口になる対談になっていればと思っています。多くの方にお目通し賜れますなら幸甚です!


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年8月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。