今月はTVなど人目を惹く業界でも、SNSでの失言で仕事をなくす例が続き、「キャンセルカルチャーの猛威」がようやく国民の肌感覚になったようだ。3年前から議論を提起していたこの問題の第一人者としては、実に感慨をもよおす夏であった。
そうはいっても因果なもので、もともと歴史学者をしていると、オンラインでの近日の流行に見えるキャンカルにもまた、過去から続く人類史の暗い伏流が流れていることに気づいてしまう。
立花隆『日本共産党の研究』(連載1976〜77年。ヘッダーも同書より)といえば、連載当時の政治情勢まで動かした戦後ジャーナリズムの名著である。別の理由で読んでいた折に、まさにいまの日本を捉える上でぴったりの叙述を見つけた。
戦前の一次史料の引用は、カナをひらがなに改めて、以下に写すと――
「以上の手厳しい査問の結果〔、〕小畑は自分が政治的水準が低いのと能力がない為め〔、〕客観的には自分が従来やつて来た言動は反党的〔・〕非ボルシェビキー的で、客観的にはプロバカートルであることは自認しましたが〔、〕決して意識的なスパイではないと弁明しました」(袴田予審調書)
この「客観的には」というもののいい方は共産党独得の用語法で、「客観的な事実問題としては」の意味ではなく「党側の主観的な目への映じ方からすれば」という意味に用いられる。党のまったくの主観的な判断に対して、ことばだけ「客観的」ということばを用いるので、何となく客観的な判断ではないかと思わせる、恐るべき用語法である。
単行本下巻(講談社)、379頁
強調は引用者
プロバカートル(挑発者)とは往年の左翼用語で、失敗が確実の過激な方針をあえて煽動し、体制側が摘発する口実を作る人を指す。そうした者が味方に混じっていると、もちろん党は警察に踏み込まれ壊滅してしまうので、スパイと並ぶ「裏切り者」「人民の敵」とされたわけである。
重要なのは、スパイは官憲からお金をもらうなりして、自覚があってなるのが基本だけど、プロバカートルの場合は、自覚なしに「なってしまう」こともあり得る。それはそうなのだが、そこに「客観的には」という言い方を持ち込むと、恐ろしいことになる。
お前がやったことは、俺たちの党にとっては好ましくない、という、単なる特定の立場からの価値判断に過ぎないものが、あたかも自然法則に基づき、リンゴは手を離せば落ちるのと同じくらいの確実さと絶対性をもって、「自明のものとしてお前は悪だ」に変換されてしまう。
……いやぁ、秘密結社って怖かですねぇ。クローズドな人間集団の内部でのレッテル貼りは、本当に恐ろしい。
立花の同書は、敗戦後の合法化を経て高度成長期に大衆政党へ飛躍した後でも、日本共産党の民主集中制にはそうした地下組織としてのエートスが残っていることを指摘して、大きな反響(反共?)を呼んだ。
……ところがふと気がつくと、いまや共産党員ではない人(つまり私やあなた)も含めて、誰もが同じ「客観的には」の論理に襲われかねない。そんな社会が始まっている。
直近のきっかけは、2020年の新型コロナ禍だった。「客観的には」その活動は、ウイルスを広める行為なんだ。そうした口実で、憲法が保障するはずの私たちの移動や集会や営業の自由は、みるみる失われていった。
当初から僕は、人にうつす可能性があるからという理由で自由を制限するのは、戦前の治安維持法下で行われた「予防拘禁」と同じだとして、そうした流れと闘った(『歴史なき時代に』53頁)。つまり、反戦を貫いた共産党員のように礼讃されるべきなのは僕であって、官憲のイヌ(ブタ?)よろしく「お前は非国民だ」と嘲笑い集団で罵声を浴びせてきた、歴史学者の面々ではない。
コロナ禍が長引く中、2021年から強まったのがキャンセルカルチャーの風潮だ。「客観的には」ウイルスを広めている、の段階では、自然科学的にはそうも言えるかなという根拠があったが、ここで完全に、そうした基礎づけが外れてしまう。
誰かが怒った・不快感を抱いた、といった主観的な反応が、「客観的には」お前は差別した・二次加害をした、へと勝手にすり替えられて、他人を叩く道具に使われる。これまた、そうした攻撃に屈せず全面論破したのは、「僕が」徳田球一や宮本顕治のような闘士だからで、逆ではない。
多くの人は忘れがちだが、2022年の2月にウクライナ戦争が起きた際も、オミクロン株の形でコロナ禍は続いていた。つまり、ついナチュラルに「客観的には」論法を使って、不快な相手を排除したくなる空気に、社会が覆われていた。それがこの戦争に関する議論を不自由にし、歪ませてきた感は拭えない。
「客観的には」お前の言動はロシアを利する、だからお前はロシア側のプロバカートルだと言わんばかりの態度でSNSを使い倒し、TVに出ては西側のスパイもかくやの調子で虚偽を流し、情勢が変わり名声を失いかけるや官憲に頼って生き残りを図る識者も、目下の大学には居ると聞く。もちろんそんなわがままは、許されない。
激しい弾圧の下にあった戦前の共産党が、互いをスパイだと疑うなかで「客観的には」の罠に陥り、自滅していったことには同情の余地もある。しかし彼らと異なり、自由なネット社会で「オープン」に繋がりながら、同じ力学に嵌まって罵りあい、傷つけあうのは愚かなことだ。
『日本共産党の研究』で最も感動を呼ぶのは第14章、スパイの濡れ衣を着せられ殺されかけた当事者が、いまも「スパイ説」を信じる現役の党員と立花氏の仲介で対話し、ついに冤罪だったと認めさせ、和解する箇所である。
私も、いつでも対話と和解の用意はありますので、身に覚えのある人は連絡してきてください。逆に、してこない人は「人民の敵」ですので、今後はいっそう激しい「闘争」の対象にし、厳しく「総括」を求めてゆきます。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年8月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。