8月27日付で、筑波大学は所属する東野篤子教授のTwitter利用に関し、「コンプライアンス違反に該当するような事項は確認することができませんでした」(原文ママ)との回答を、ネットリンチによる被害を訴えていた羽藤由美氏に送付した。
違反は確認されないと大学が判定したのだから、「職場に迷惑がかかる事態はどうしても防ぎたく」てTwitterに鍵をかけた東野氏(原文ママ)が、鍵を開けての投稿再開をためらう理由はない。また周囲の研究者も、いまこそ「東野先生への批判は不当だった!」と声を上げる時であろう。
しかしながら目下、そうしたことは起きていない。むしろ筑波大学の回答文の方が呆れられ、公然とバカにされる日々が続いている。
以前から予告してきたが、これもまた既視感のある光景である。2021年に問題となった「オープンレター」は後日、民事裁判を経て当事者との和解に達したのだから、その主唱者はいまこそ胸を張って、「(当事者とも和解済みの)レターを参照するよう明示的に訴える」のが本来あるべき姿だ。
ところが、当初は18名もの発起人を有したにもかかわらず、そうした営為は少しも見かけない。なのでいまも、「オープンレター(ズ)」で検索すると、ヒットする投稿の99%が悪口という惨状はそのままだ。
どうしてそうした恥ずかしい事態を、著名な研究者を多数含む日本の大学は引き起こしてしまうのか。1931年のフォークナーの短編「乾燥の九月」(Dry September)をちょうど読んでいて、膝を打つ描写に出会った。
米国南部が生んだ最大の作家とされるフォークナーが、同作で採り上げたのは白人による黒人への私刑である。冒頭の理髪店の場面、ただ一人の理髪師のみが冤罪の可能性を指摘し、リンチの自制を促すが、周囲は受け入れず敵意を募らせていく。いわく――
「信じられないとは、なにがだね?」と汗によごれた絹のワイシャツを着た、図体の大きな青年がいった。「あんたは白人の女のことばよりも、黒人のいうことのほうがほんとだとでも思うのかい?」
(中 略)
「そんなことをいうようじゃ、あんたは白人の面よごしだよ」と客がいった。そして、掛布の下で、もじもじ動いた。図体の大きな青年は、飛びあがるように立ちあがっていた。
「あんたには信じられないって? すると、あんたは白人の女がウソをついたとでもいうんだな?」と彼がいった。
龍口直太郎訳、157-8頁
(強調は引用者)
ここから繰り返しねちっこく描かれる、この種の会話の特徴は2つだ。まず① 個別の事情を無視して当事者の属性(白人/黒人)だけが問題にされ、次に② 自らの属性と同じ側に味方するのが当然だと煽られる。
学者っぽい概念にすると、よく「カテゴリー化の暴力」と呼ばれるもので、たとえば近代ナショナリズムの(負の)特徴として指摘される。
つまり荒っぽく男臭い気風の下、野放図な人種差別が横行した戦前のアメリカ南部だけではなくて、モダンで「知的な」サークルの内輪でも、類似の構図はふつうに起きるのだ。
「あんたはフェミニストのことばよりも、ミソジニストのいうことのほうがほんとだとでも思うのかい?」
「あんたはウクライナを応援する専門家のことばよりも、親露派のアカウントのいうことのほうがほんとだとでも思うのかい?」
フェミニズムもウクライナ戦争も、今日の世界の重要な課題であり、それに関心を持つ人は(まして専門にする人は)たしかに「知的な人」だ。しかし知的な対象を扱っているからと言って、その方法が無知で暴力的なままでは、知性のないレイシストと同様の野蛮な結果しか生まない。
方法が知的かどうかは、SNSでその人を取り巻く「味方」の質を見ればわかる。いかに本人が学位や業績を誇ろうと、米国南部並みのリンチの論理で動く無能な味方をケンカで「勝つ」ための私兵に使う人には、知性はない。
だいぶ前に警告しておいたのに、やめられないらしい人も居るとなると、学者と論争しても効能はまったくなく、むしろ「依存症」に対するアプローチが要るのかもしれないと、近日は思う。
実はフォークナーは鋭くも、先ほどの引用の省略部に、こんなセリフを入れている。あくまでリンチを止めようとする理髪師に対し、苛立った白人の青年が言い放つのは、
「じゃあ、たぶん、あんたはほんとうの犯人を知ってるんだね」
まさしくいま、「知性がある」つもりでSNSでのリンチを煽る人が使う、お約束のフレーズだ。「批判する以上は、あなたは○○先生より知識あるんですね?w」「専門家よりお詳しいんですね?ww」というやつである。
もう何度も書いてきたが、「専門家」なる存在を盲信することの危険もまた、ここにある。誰がセンモンカであるのかは、その人の研究対象のみによって選抜されるから(そのチェックも実は甘いんだけどね)、彼や彼女が自らの知性を扱うしかたが適切なのかは、まったくの未知数だ。
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そんなアブナイ人たちに全幅の信頼を置くのは、リスク高すぎでしょ。実際にSNSでは「私と違う意見は認めない!」と異論を潰してまわりながら、TVでの発言がまちがいだと判明してもダンマリなセンモンカとか居るわけで。将来、よその国じゃなく自分の国の戦争をそんな人に扱われたらと思うと、ゾッとしますな。
個人的には、コロナ禍以来続けてきたこうした批判も、そろそろ打ち止めにしたい。しかしそのためには、2020年以降の専門家依存は「やっぱりヤバかったよね」という、社会的な合意が築かれる必要がある。
ところが逆に、いやいや、この間の「センモンカの活躍は素晴らしかった! コロナやウクライナの次の危機でもみなさんが盲信してくれるように、センモンカの権威を讃え続けよう」と目論む人たちもいるようだ。遺憾ながら、そうした居直りが改まらないと、こちらも南部の理髪店めいた空気のままで、監視の目を光らさざるを得ない。
私としては、これで終わりにしたいし、また終わってくれることが、すべての人のためになると思う。しかしその鍵を握るのは、この間喋り続けた私ではない。むしろ必要な発言をせず、いま沈黙する「知的な」人々である。
(ヘッダー写真は、朝日新聞の記事より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年9月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。