小泉進次郎氏がモデルにしているのは、明らかに父親である。本書は飯島元秘書官の「秘録」というよりざっくばらんな思い出話だが、印象的なのは小泉純一郎氏が「一匹狼」だという意識が強く、まさか首相になるとは思っていなかったことだ。「自民党をぶっ壊す」というのも元は「田中派をぶっ壊す」という意味だったが、力関係には圧倒的な差があった。
よくも悪くも思い込みが強く、戦略がない。政局の勘は鋭いが政策には関心がなく、細かいことはみんな側近にまかせる。小泉政権の経済政策は、ほとんど竹中平蔵氏が立案したものだが、経済諮問会議では必ず彼の隣にすわり、「竹中のいう通りだ」とトップダウンで指示した。
財政超タカ派の「新自由主義」
郵政民営化も、小泉氏が大蔵政務次官だった1970年代からの信念だった。特殊法人が赤字を垂れ流し、それを財政投融資でプールして一般会計で補填するという形で、財投が田中派の私物化する「裏の国家予算」になっていた。その入口になっている郵貯をふさがないと出口(特殊法人)の無駄づかいは止められない、というのが郵政民営化の原点だった。
それが自民党ではきらわれ、選挙で負けることは彼も知っていたが、3度も総裁選挙に出馬した。初めの2度は泡沫候補で、3度目は出馬するかどうか本人も迷ったが、「行財政改革をやらないと自民党は滅びる」という財政超タカ派の信念を訴えるために出馬したという。
田中角栄がたくさんつくった特殊法人の財源のほとんどは大蔵省の資金運用部で「財政投融資計画」という別の予算で運用されていた。その規模はピークの1995年で40.5兆円。一般会計の57%もあった。個々の特殊法人の予算は国会の審議を通らないが、赤字が出た場合は一般会計から埋めていた。
その資金の入口は郵便貯金・簡易保険・国民厚生年金の3つだった。このうち年金は橋本内閣で年金福祉事業団の廃止が打ち出され、2001年に小泉厚生相のとき廃止された。郵貯・簡保について郵政省は「郵貯の資金は自主運用したい」と要求する一方、財界からも「事実上の政府保証で民業を圧迫する」と批判が出ていた。
金融危機の中の「清算主義」が奇蹟を生んだ
大蔵省も財投の赤字が増え続けるため、郵貯・簡保の資金運用部への預託をやめる方向で改革を進めていた。これを決めたのも橋本内閣の行政改革会議で、小泉純一郎氏が首相になる直前の2001年3月に資金運用部は廃止された(もともとこれは理財局の業務で「資金運用部」という部はなかったのだが)。
この結果、特殊法人のほとんどは独自に起債し、その債券を日本郵政公社が買う形になったので、一般会計からの赤字補填はほとんどなくなった。この財投が郵政民営化の「本丸」だったので、2001年4月に小泉首相が誕生したときは、その本丸はなくなっていた。財投改革をやったのは橋本内閣だったのだ。
それでも「官から民へ」とか「民間にできることは民間へ」という小泉首相の新自由主義は明快で、税金の無駄づかいを止めるという彼の哲学は、多くの国民の支持を集めた。
改革は、当初はスムーズに進んだわけではない。橋本内閣のつくった経済財政諮問会議を活用し、夏の概算要求に先立って6月に骨太の方針を出す方式は2001年から始まり、小泉首相は緊縮財政の方針を打ち出した。
これは常識では考えられない。このような大不況では総需要を支えるために財政赤字を増やすのがケインズ以来の常識であり、「金融危機の最中に歳出を削減するのは非常識だ」という批判が強かったが、2002年度の当初予算は前年度比10%の緊縮予算となった。
日本の財政赤字と実質成長率(出所:IMF)
しかし図のように日本の成長率は、緊縮財政の2002年から上がった。小泉内閣は大不況に緊縮予算を組む清算主義で成長を回復したのだ。
このような奇蹟が起こった原因には諸説あるが、一つは不良債権の清算で企業の新陳代謝が起こり、ゾンビ企業の抱え込んでいた資金が市場に循環し、潜在成長率が上がったこと。もう一つは日銀の福井総裁が量的緩和で企業の資金ぐり支援をしたことだろう。この時期には、量的緩和には効果があったのだ。
政治をマーケティングに変えた
小泉首相が強い指導力を発揮するようになったのは、2005年の郵政選挙のあとだ。これは参議院で法案が否決されたことを理由に解散するという常識はずれの選挙で、前述のように郵政民営化のコアだった財投改革は2001年に終わっていたので、残る問題は郵便事業への民間参入ぐらいで、解散・総選挙で民意を問うほどの争点ではなかった。
それでも長年にわたって停滞していた自民党政治を「ぶっ壊す」という小泉の気迫が国民を魅了し、郵政民営化に反対する候補者は公認しないで「刺客」を立てるなどの劇場型の選挙で圧勝し、自民・公明で2/3を超える圧勝をもたらした。これによって小泉首相は党内の主導権を握り、中川秀直政調会長が党も掌握して「小泉一強」体制ができたのだ。
これは自民党の伝統的な集票構造である個人後援会や利益団体では足りない小選挙区制のもとで、メディアを通じて不特定多数の国民に「改革イメージ」を売り込む政治的マーケティングだったといえよう。その具体的な中身はあまりなく、メディアも国民もそれを知らなかったが、このマーケティングは圧倒的な効果を発揮した。
これが小泉改革の最大のイノベーションだったが、それは後継者に受け継がれなかった。第1次安倍内閣は「消えた年金」という小さな問題の処理を誤って倒れ、その後の福田・麻生首相も小泉氏のようなカリスマ性に欠けたため、ついに自民党は政権を失ったのだ。