「小泉ジュニア首相」のための10の政策

池田 信夫

もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら2011年のマンガ『もし小泉進次郎がフリードマンの「資本主義と自由」を読んだら』で予想した「小泉ジュニア首相」のシナリオが、予想以上に早く実現するかもしれないので、この本でも紹介した『資本主義と自由』の政策を紹介しておこう。

20XX年、小泉進次郎氏が自民党総裁選挙に出馬し、「新たな小泉改革」を旗印にして当選した。彼は国会で首相に指名されると「私のやりたいことはここに書いてある」といって、フリードマンの『資本主義と自由』を出した。そこには次のような10項目が書かれていた。

  1. 農業補助金の廃止:フリードマンが反対したのは、政府が農産物の買い取り価格を決める価格支持制度だ。これによって消費者は二重に損をする。価格が市場で決まる水準より高い上に、その補助金のために税金が使われるからだ。農家の所得を増やすことが目的なら、価格支持や輸入制限をやめて所得補償で行なうほうが効率的だ。
  2. 関税の撤廃:これはアダム・スミス以来の経済学の原則だが、どこの国も実行したことがない。重要なのは、第4章に書かれている変動為替相場の提案である。これはフリードマンが『資本主義と自由』で提言した11年後の1973年に実現した。
  3. 最低賃金の廃止:最低賃金を設けると、いま働いている労働者の賃金は保証されるが、最低賃金以下で働いてもいいという人の職を奪う結果になる。
  4. 企業に対する規制の撤廃:規制撤廃(deregulation)という言葉が使われるようになったのはレーガン政権だが、実際には70年代後半のカーター政権の時代から航空機の規制緩和などが始まっていた。これを継承して規制を撤廃することが「レーガノミックス」の重要な柱だった。
  5. 政府による電波の割当の廃止:政府が書類審査で電波を割り当てる制度は、20世紀の初めに電波政策が始まったときから続いていたが、1959年にロナルド・コースは周波数オークションで電波を割り当てるべきだと提案した。美術品などと同じように、公開の場で競争入札で電波の価格を決め、最高価格を出した企業に免許を与えればよいというものだ。
  6. 公的年金の廃止:豊かな人から貧しい人に所得を再分配する必要はフリードマンも認めているが、公的年金は所得に関係なく年齢を基準にして支給するため、貧しい若者から貯蓄の多い高齢者に逆分配している。しかも現在の高齢者の年金を現在の現役世代が負担する賦課方式は、日本のように急速に少子高齢化が進む国では、大きな世代間格差をもたらす。
  7. 職業免許の廃止:フリードマンは、免許資格認定を区別する。たとえば医師の資格を国家試験で認定し、合格者はそれを表示できるが、患者は無資格の医師に診察してもらうことも自由にすればいい。ちょっとした風邪や腹痛ぐらいなら低料金の無資格医師に診てもらえばよいし、外科手術は資格をもった医師にみてもらえばよい。
  8. 教育バウチャー:貧しい地域で生まれた子供は、たとえ学力があっても近くの(学費の安い)公立学校へ行かざるをえない。その結果、格差は固定され、貧しい地域の学校はますます劣化するという悪循環が生じる。これを防ぐために私立学校の学費も公立と同じになるようにバウチャー(奨学金)を出し、親が学校を選べるようにしようというものだ。
  9. 郵政民営化:どこの国でも郵便事業は国営で始められ、金融などを兼営しているケースが多い。日本の郵政民営化は、財政投融資という巨大な「国営銀行」の存在が非効率な公共事業の温床になると同時に金融システムを歪めているということが当初の問題意識だった。実際には、この問題は90年代に大蔵省の資金運用部を解散することによってほぼ解決していた。
  10. 負の所得税:生活保護は、所得のない人には支給されるが、少しでも所得があると支給されないので、働かないほうが得になってしまう。このようなモラルハザードを防ぐためには、所得税の直接給付という形で所得を再分配することが合理的だ。これはベーシックインカムと同じだが、アメリカでは部分的にEITC(勤労所得税額控除)として導入された。

このうち特に重要なのは、6の公的年金の廃止と10の負の所得税である。フリードマンは公的年金を廃止して、所得再分配を税に一本化するよう提案した。進次郎氏は社会保障にはまったくふれていないが、これこそ現在の日本の最大の問題であり、特に高齢者医療の過剰医療が日本経済の重荷になっている。

『もしフリ』に描いたフリードマンの提案のうち、2の変動為替相場と5の電波オークションは実現したが、他はほとんど実現していない。すべて実現する日は、おそらく永遠に来ないだろう。それは彼が間違っていたからではない。彼の政策があまりにも合理的で、既得権を侵害するからだ。この意味で、残念ながら『資本主義と自由』は永遠に新しい古典である。