「均衡」について:ミアシャイマーとキッシンジャー

前回の記事で、ゼレンスキー大統領のクルスク侵攻作戦の最大の目的は、「戦争を継続させること」であった、と書いた。たとえウクライナ側の被害の方が大きくなる合理性のない作戦であるとしても、ゼレンスキー大統領は、「成熟」の成立を拒絶し、停戦の機運が高まることに抵抗した。

トランプからクルスク、そしてミアシャイマー
9月10日に開催された米国大統領候補者同士の討論会において、政策的立ち位置でトランプ氏とハリス氏の違いが鮮明になった争点の一つが、ロシア・ウクライナ戦争への態度であった。 ABCテレビの司会者がトランプ氏に「あなたはウクライナに勝って...

だが損失を甘受してまでして戦争の継続を望み、それでいったいどうやって勝利しようというのか? それが次の問いであろう。

戦争のエスカレーションを通じて、さらなるNATO諸国の戦争の関与を引き出して、戦争に勝利する。それがゼレンスキー大統領の考えだろう。より正確に言えば、それ以外の方法では、もはや戦争に勝利する方法がない。

ゼレンスキー大統領は、アメリカをはじめとするNATO諸国の臆病を糾弾し、長距離兵器によってロシア領地の奥深く攻撃をしたい。戦争のエスカレーションを通じて、NATO諸国をよりいっそう深く戦争の当事者として巻き込んでいきたいからだろう。

繰り返しになるが、どうしても絶対に「ウクライナは勝たなければならない」のであれば、NATOの直接介入くらいを目指すのは、仕方がない。NATOを巻き込むことなくして、「勝たなければならない」目標を達成する見込みはない、と考えるのは、実は理論的には破綻していない。

左:ジョン・ミアシャイマー 右:ヘンリー・キッシンジャー

 

前回の記事において、ミアシャイマー教授が、ウクライナの敗北以外に、戦争が終わる見込みはない、と断言しているのは、こうした事情を見てのことだろう。

ウクライナは、NATOのさらなる関与を引き出すことを目標にして、軍事的には合理性の欠けた、エスカレーションそれ自体を目的にした作戦を繰り返す。NATOのさらなる深い関与以外には、「勝たなければならない」目標を達成できないからだ。

ところが驚くべきことに、NATO諸国は、実際には、直接介入などしたくない。そのための準備も全くしていない。このミスマッチを、ロシアは突いてくる。ロシアは前進できる限り、前進してくる。

ミアシャイマー教授は、この構図を見透かしている。そのためウクライナが、エスカレーションそれ自体を目標にした作戦を繰り返す行動の効果を、見限っている。

私は『フォーサイト』という会員制のオンライン・サイトで、国際問題に関心を持つ層向けの時事問題を論じる文章を定期的に書いている。そこでミアシャイマー教授について、2022年の全面侵攻のすぐ後に、幾つか書かせていただいた。

ミアシャイマー「攻撃的リアリズム」の読み方――ウクライナ侵攻「代理戦争論」「陰謀論」の根本的誤り(上):篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
ウクライナ「代理戦争」論者、陰謀論者が俄かに引き合いに出す政治学者ミアシャイマーだが、多くの場合その攻撃的リアリズム理論は誤用されている。ミアシャイマーはアメリカ外交がウクライナに「緩衝地帯」以上の地位を与えたことを批判しており、「アメリカがウクライナをけしかけて戦争させた」などとは述べていない。 (後編はこちらのリン...
ミアシャイマー「攻撃的リアリズム」の読み方――ウクライナ侵攻「代理戦争論」「陰謀論」の根本的誤り(下):篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
ミアシャイマーの思考の中心には、中国封じ込めを目的とするアメリカ主導のバランシング同盟形成があり、そこにロシアも参加させる発想がある。ゆえにミアシャイマーからすれば、2014年マイダン革命以降のウクライナをめぐる米露間の緊張は、欧州の事情でロシアとの間に火種を持つという構造的レベルでの誤りを意味しただろう。 (前編はこ...

ミアシャイマー教授は、「攻撃的リアリズム」の理論で知られる。端的に言えば、国家の攻撃性を強調する学派だ。ミアシャイマー教授は従来から、NATOの東方拡大をウクライナまで及ばせようとして、ロシアが反応しないはずがない、という主張をしていた。2014年マイダン革命以降、その警鐘を鳴らしていた。

彼は「親露派」の「陰謀論者」とみなされて、今や欧米+日本の主流派の人々からは完全に白眼視されているが、彼の理論的立場からすれば、当然の結論を述べているだけだったにすぎない。私は、『フォーサイト』で、そのことを指摘した。

私は、次に『フォーサイト』で、ヘンリー・キッシンジャーについて繰り返し書いた。やはりアメリカの現実主義者として知られる学者だが、大統領補佐官・国務長官も務め、アメリカ外交史に巨大な足跡を残した人物だ。もともと研究者だったが、博士号取得論文が19世紀ウィーン会議の研究であったように、外交史の研究に重きを置く人物であった。その点は、ミアシャイマー教授とは、少し趣が異なる。

キッシンジャーがダボスで語った新たなウクライナの「正統性」と欧州の「均衡」(上):篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
波紋を広げたダボス会議でのキッシンジャー氏の発言は、「領土分割」が真意ではない。ウクライナに関する「中立的な国家」という自身の認識の修正と、ロシアを排除した欧州の均衡は成立しないという今後の秩序構築が論点だ。(後編はこちらのリンク先からお読みいただけます)
キッシンジャーがダボスで語った新たなウクライナの「正統性」と欧州の「均衡」(下):篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
「正統性」と「均衡」の両建てで国際秩序は維持される――。そうした一貫した世界観のもと、キッシンジャー氏はウクライナがこの戦争で新たな正統性を得たことに注目する。新たな正当性は必然的に、新たな均衡を伴うだろう。一貫性のもとでの「修正」を忌避しないというこのキッシンジャー氏の示唆を、われわれは受け止める必要がある。(前編は...

キッシンジャー氏は、22年5月のダボス会議にオンラインで出席した際に、ウクライナ情勢について語った。それが誤解され、キッシンジャー氏がウクライナに領土の割譲を求めた、と報道された。ウクライナ政府がいち早く反応してキッシンジャー氏を非難する発言をしたため、大騒ぎになった。

私が『フォーサイト』で書いたのは、キッシンジャー氏は、領土の割譲を求めていない、ということであった。同氏の書物は難解だ。実は話し言葉も難解である。学者が見て単語の選択が正確すぎるだけでなく、言葉のニュアンスに非常に配慮が行き届いているため、結果的に普通の文章としてはわかりにくくなる。

しかしキッシンジャーの著作群を知る者には、ダボス会議で同氏が述べたことは、「領土を割譲すればいい」といった単純なことではなかったことがわかったはずだった。

ロシア・ウクライナ戦争:「領土問題が終結のカギ」はなぜ間違いか:篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
将来に亘ってロシアの侵略を防ぐことが重要なウクライナにとって、領土割譲で戦争に決着がつくとの声ほど的外れなものはない。必要なのは「ウクライナの個別的自衛権を行使する実力」による抑止を、NATO構成諸国はじめ国際社会が保障する体制だ。
キッシンジャー発言再考:ウクライナ問題解決の「正統性」と「勢力均衡」:篠田英朗 | 「平和構築」最前線を考える | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
5月のダボス会議でのキッシンジャー発言は「ウクライナの領土割譲を容認」という誤解を生んだ。これについてキッシンジャーは、7月の独「Spiegel」誌によるインタビューで明確に否定した上で、平和構築に必要な「正統性」と「勢力均衡」のあり方を説いている。

キッシンジャー氏は、戦争の現実をふまえた上での新たな「正当性と均衡性」の構築が必要だ、という極めて理論的なことを述べていた。これは19世紀ウィーン会議の研究でハーバード大学で博士号を取得したときからの一貫した同氏の着眼点である。キッシンジャー氏は、百歳まで生きた生涯をかけて、このことを語り続けていた、と言っても過言ではない。

1991年の時点の領土的一体性の維持は、国際法上の裏付けがあり、この「正当性」を無視した紛争解決は、安定性を確保できないだろう。しかし「正当性」を振り回すだけでも、解決はもたらせない。「正当性」の裏付けは、計算された「力の均衡」によって確保されなければならない。

ロシアとウクライナの間の力の非対称な関係が、NATO諸国の国際支援とウクライナの2014年以降そして2022年以降の軍備強化によって、是正される。最終的な紛争解決の形は、この計算式の結果として、生まれてくる。

より具体的に言えば、ウクライナ及び支援国は、領土の割譲を認めることはできないし、認めたところで情勢が安定するとは言えない。しかしだからといって領土を武力で奪還できるまで戦争を止めてはいけない、とはキッシンジャーは言わない。力の均衡が成立する点を見極める際、ロシアの計算式よりもウクライナに有利な修正が施されるだろう。しかしそれは、あくまでも「力の均衡点」のことである。「現実を何とか正当性にあわせるためにどこまでも戦争をする」ことではない。

さらに具体的に言えば、朝鮮半島、カシミール、キプロスなど、紛争当事者が領土問題に合意しないまま達成されて維持されている停戦合意は、世界に多々ある。というか、停戦合意というのは、通常は、そういうものである。一方的な主張も、一方的な譲歩も、紛争解決に役立たない。ポイントは、力の均衡点を見つけ出し、それを正当性の原理と、何らかの修正を持って結びつけていくことである。

現在進行中のロシア・ウクライナ戦争が、世界の他の戦争、あるいは調停されてきた歴史上の戦争と異なっているのは、当事国及び深い関与をしている支援国群が、「勝たなければいけない」の原理主義的立場を取り、「力の均衡」を見出す努力を放棄している点である。

これは過去の歴史で言えば、二度の世界大戦のように全面戦争の末、どちらかの紛争当事者の完全敗北に至るまで続いた戦争のパターンであると言ってよい。それとは対照的に、キッシンジャーは、米中和解、ベトナム戦争の終結、などの外交成果を、「正当性と均衡性」の視座にもとづく計算式を精緻化する能力で、達成した人物である。

ウクライナは領土を全て奪還したら戦争を停止したいので、ロシアを前面屈服させるわけではない、と言うかもしれない。しかしそのときロシアが戦争を停止する保証はない。要するに、どこで「均衡点」を見出すか、が本質的な問題である。領土の線引きではない。

ネオコンを排し、新しい共和党の体制を構築したドナルド・トランプ氏は、決して理論的な観点からキッシンジャーを信奉しているわけではないだろうが、その比類なき交渉好きの性格から、結果としてキッシンジャー路線に立ち戻ろうとしているようにも見える。

アメリカのバイデン政権関係者を含めて、現在のロシア・ウクライナ戦争の当事者たちは、そこから遠いところにいる。

そうだとすれば、と、ミアシャイマー教授は言うだろう。「均衡性」を度外視して、ウクライナが勝つか、ロシアが勝つか、二者択一の世界が広がる。純粋な「攻撃的リアリズム」の世界だ。

欧州の指導者たちは、そのうえで「ウクライナが勝たなければならない」と力説している。バイデン政権関係者は「ウクライナに勝ってほしい」という言説で、アメリカの有権者にアピールしようとしている。

そこでゼレンスキー大統領は、だったら米欧諸国よ、もっともっともっと深く戦争に関わってほしい、直接介入してもらっても構わない、というエスカレーションのことばかりを考えている。

しかし、「ウクライナは勝たなければならない」と力説している諸国は、実際には自ら介入する意図は持っていない。

この様子を見るミアシャイマー教授は、次のように考える。もしそうだとすれば、純粋な「攻撃的リアリズム」の観点からすれば、ウクライナの敗北以外のシナリオで、戦争が終わることはない、と。

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