現在、「日の丸半導体」の復権を目指して政府主導で次世代半導体の国内量産新会社「ラピダス」が始動し、北海道千歳市で新工場の建設が進んでいる。政府はラピダスに対し総額9200億円の助成を既に決定しているが、量産実現には5兆円の資金が必要とされており、民間からの出資は進んでいない。そこで政府は民間の融資促進を目的として、融資に政府保証をつける案を検討し、ラピダス支援法案を提出する予定である。
ところが、自民党総裁選後に早期の衆院解散・総選挙が取り沙汰されているため、政府は年内の臨時国会での法案提出を断念する方向で調整に入った。2027年の量産開始計画に影響を及ぼす可能性も懸念されている。
ただし、この巨額の国費を投入する国策プロジェクトはそもそも適切なのか、「税金の無駄遣い」になるのではないか、といった疑問の声も少なくない。私はラピダスをめぐるニュースや議論を見ていて、江戸後期の幕府老中だった田沼意次を想起した。
田沼意次(1719~1788)は戦前戦後を通じて、賄賂を好む汚職政治家として、たいへん評判が悪かった。しかし歴史学者の大石慎三郎氏が1991年に発表した『田沼意次の時代』(岩波書店)で田沼の再評価を行い、作家の堺屋太一氏らもこれを受けて田沼の経済政策を高く評価した。現在では、緩やかな物価上昇を是とする「リフレ派」と呼ばれる経済学者・経済評論家と、その影響を受けた保守派の論客の間で、一種の「田沼ブーム」が起こっている。
けれども近年のリフレ派による田沼評価は、悪徳政治家という不当なレッテルを訂正する「再評価」ではなく、天才的改革者として礼賛する域にまで達しており、違和感がある。現在の歴史学界では、田沼の評価に対する揺り戻しが起こっており、田沼の政策の限界・問題点が指摘されている。
大石氏をはじめ、田沼意次の先見性・革新性を評価する論者が注目する業績の1つが、田沼が主導した蝦夷地(北海道)探検と、それに基づく同地開発計画である。
18世紀には、ロシア人が千島列島を南下し、東蝦夷地の要地である厚岸にまで姿を現すようになった。これまで幕府は蝦夷地の経営を松前藩に完全に委任していたが、ロシアの野心をオランダが警告するに及んで、対ロシア防衛の最前線として蝦夷地に目を向けるようになる。その先駆者が田沼意次であったとされる。
仙台藩医で蘭学者の工藤平助は天明元年(1781年)から同3年にかけてロシア研究書『赤蝦夷風説考』(全2巻)を著し、ロシア人の南下を説き、北辺の防備と、ロシアとの貿易の必要を論じた。
工藤平助の娘、只野真葛の随筆『むかしばなし』によると、平助と面会した田沼の家臣が、平助の北方開発論に興味を示し、主君に構想を伝えるために1冊の本にまとめてほしいと平助に要望した結果、執筆されたのが『赤蝦夷風説考』だという。
案の定、田沼は『赤蝦夷風説考』に関心を抱き、その検討を勘定奉行の松本秀持に命じた。天明4年(1784年)5月16日、松本は蝦夷地政策の方針案を田沼に提出した。松本の案で強調されていたのは、蝦夷地の鉱山を開発して金銀銅を採掘し、それを輸出してロシアと交易するというものであった。
松本の検討は田沼の意向に沿ったものであろうから、鎖国から転換しロシアとの交易を公式に行うという松本の考えは、田沼の考えでもあったと思われる。田沼の関心は、蝦夷地の鉱山開発と対ロシア貿易に向いていて、海防(国防)は軽視していたようである。
鉱山開発とロシア貿易の実現可能性を調査するため、田沼は天明5年(1785年)から同6年にかけて、佐藤玄六郎を隊長とする調査隊を蝦夷地へ派遣した。調査隊は二手に分かれ、東蝦夷班の青島俊蔵・山口鉄五郎・最上徳内らは千島列島をクナシリ(国後)・エトロフ(択捉)からウルップ(得撫)まで探検した。
西蝦夷班では天明5年に庵原弥六らがカラフト(樺太)に渡って海岸沿いに90里を踏破した。宗谷に引き返した庵原は越冬中に病死し、翌天明6年に大石逸平らが第二次調査隊として再びカラフトに渡り、ナヨロ(名寄)まで至った。
ところが、大探検の経済的成果は乏しいものであった。天明6年2月、江戸に戻った佐藤玄六郎の第1次調査の報告を受けて松本は、具体的な蝦夷地政策を提案したが、その提案書には鉱山開発の計画は見えない。噂に反して、蝦夷地の金銀銅の埋蔵量は少なかったのであろう。
ロシアとの貿易についても、実際の日本人とロシア人の密貿易は小規模で、ロシアが日本との交易に熱心であるという話はかなり誇張されたものであった。しかも、ロシア人がもたらす商品は長崎貿易の輸入品とほぼ同じで、ロシアとの貿易には大きなメリットがないことが判明した。松本は当面はロシア貿易の必要なしと結論づけている。この提言を受け、田沼はロシアとの貿易の実施を見送った。
代わりに松本が提案したのが、蝦夷地における大規模な田畑の開発であった。ロシアとの貿易という大胆なプランが消えて、新田開発という新味のない案が出てきたわけだが、その規模は空前絶後であった。
蝦夷地本島の面積を1166万4000町歩と試算した上で、その10分の1が耕地化できると仮定すると116万400町歩。内地では一反の田から一石の米が収穫できるが、蝦夷地ではその半分の5升の収穫が見込めると仮定すると、石高は583万2000石となる。
歴史学者の藤田覚氏は「この新田開発計画が実現すると、当時の日本全国の石高を3000万石と推定すると、一挙に20パーセントも増加し、単位面積あたりの収穫量が内地並みになれば、40パーセントも増えることになる」と指摘している(『田沼意次』ミネルヴァ書房)。蝦夷地というフロンティアに夢を描いたのだろうが、気宇壮大すぎて、雲をつかむような話である。
言うまでもなく、これだけの大開発を行うには、膨大な労働力が必要である。その数は10万人と試算された。アイヌだけでは当然足りないので、穢多・非人と呼ばれていた被差別民7万人を移住させることを検討している。アイヌや被差別民が農業従事を望んでいるかどうかも不明であり、絵に描いた餅に見える。仮に労働力はまかなえたとして、開発に必要な巨額の資金はどのようにして捻出するつもりだったのだろうか。
蝦夷地を舞台とした田沼の新田開発計画は、しばしば彼の失脚により実現しなかったと語られ、田沼の次に政権を担った松平定信が計画を葬ったことを非難する向きもある。しかし、たとえ田沼が失脚せず、引き続き政権を担当していたとしても、以上のような採算を度外視した荒唐無稽な計画が実現するはずがない。
田沼は、幕府の財政難を打開するための新規巨大プロジェクトを求めていた。そうした一発逆転ホームランを望む空気の中で、威勢が良いだけで具体性のない非現実的なアイディアが浮上し採用されたにすぎないのである。
北の大地に過剰な期待をかけた田沼の蝦夷地開発計画と同じ轍をラピダスが踏まないか、注視するべきだ。