先週刊行の『表現者クライテリオン』11月号にも、連載「在野の「知」を歩く」が掲載です! 以前もご案内した、コンサルタントの勅使川原真衣さんとの対談の後半部。
自分で言うのもなんですが、前半よりもなお一層、幅広い話題をがっつり詰め込んでお届けしています。ぜひ書店で、手に取ってみてください。
さてその紹介ですが、なかでも極めつけの読みどころは、ここかなと。
與那覇:大学と能力主義の関係では、エマニュエル・トッドが鋭い指摘をしています。世界のどこでも「ある年齢層の25%が高等教育を受けた時点で、『平等』の意識は失われ、上層部の人々は自らを『新たなエリート』と認識するようになる」と(『第三次世界大戦はもう始まっている』文春新書、125頁)。
大卒以上の学歴を持つ人が数パーセントなら、自ずと「恵まれている自分は、持っている才能を社会に活かさなくては」と考え、平等主義に貢献する。しかし4人に1人が大卒になってしまうと、そこまで高邁な意識を抱けるほど、その資格はレアじゃない(苦笑)。なので「優秀な俺たちを、もっと社会は尊重せよ!」とする自意識を持ち、能力主義による格差を肯定し始める。
トッドいわく「高等教育の25%ライン」を超えるのは、アメリカでは1960年代の前半で、これは公民権運動のピークですね。つまり肌の色による差別が(公的には)撤廃され、「白人だから」というだけでは優越感を満たせなくなった時期に、「そうそう。同じ白人でも、能力がある奴とない奴は違うからね」と言われてしまった。目下のトランプ現象とは、この時始まった憤懣が、逆流のように噴出しているわけです。
一方でロシア(ソ連)では、同じ閾値を超えるのが80年代後半だという。つまり、それまでなら共産党の幹部になったはずの層が、「共産主義っておかしくないか? なぜ能力の高い俺を、低い奴らと同じに扱う?」と感じ始める。こうしてソ連が崩壊すると。
148頁
算用数字に改め、強調を付与
いやぁ、耳が痛い……っていうか、もっと痛くなるべき面々が大学教員しながらTwitterとかやってる気がしますが、おーい、聞いてるかぁ?(苦笑)。ちょっとは反省せぇよ。
それはともかく、日本はいつこの「大学進学率25%ライン」を越えたかというと、(短大も含めた場合)70年安保の全共闘運動の頃で……という話が、同誌でも続くのですが、再読して大事なことに気がつきました。
2018年の『知性は死なない』では、トッドらの知見も引用しつつ、ソ連崩壊やトランプによる「パクス・アメリカーナ放棄」、欧州での反EU世論の高まりを帝国の崩壊として論じました。共通の背景にはいわゆる反知性主義、すなわち理性偏重のエリート主義への反発があるとも(ソ連はエリート自身が放り出した点が、やや違いますが)。
対して日本の場合、「帝国の崩壊」という表現が最もあてはまるのはむろん1945年の敗戦ですが、当時は(よその国もだけど)大学教育を受けたエリート層が25%なんて、もちろんいない。
つまり近代国家として最大のトラウマを、高等教育が大衆化する以前に体験したことで、諸外国と比べても「いやいや。エリートの数さえ増えれば or 権限を彼らに委ねれば、うまくいく!」という幻想に弱いのかもしれない、日本人は。
だから「悪いのはぜんぶ亜インテリであり、インテリがファクトチェックでネットを規制すれば解決だあぁぁ!」「そうだそうだあぁぁ!」みたいなコール&レスポンスが、始終SNSの片隅を賑わせてるわけですが、そんなのぜんぜん機能してないだろってのは、前に実例を示したとおりでして。
『平成史』ほかで何度も指摘しましたが、1990年に36%だった日本の大学進学率は、2000年に49%。わずか10年で「3人に1人」を「2人に1人」に引き上げたのだから、大したものです。逆にいうと、それで社会がよくならないなら、「大学で知に触れる人口を増やせば増やすほどよい」とする処方箋そのものが、まちがってたわけで。
この点さすがだったのは、東京帝大に勤めて辞めた夏目漱石ですね。前回採り上げた『それから』でも、「もっと大学を増やせば」政策が招いた混乱を、冷ややか~に描写しています。文部省が東大に商業学科を設けようとし、いまの一橋大で反対運動が起きた事件を、踏まえていわく――
「君、あれは本当に校長が悪らしくって排斥するのか、他に損得問題があって排斥するのか知ってますか」と云いながら〔、代助は〕鉄瓶の湯を紅茶茶碗の中へ注した。
「知りませんな。何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」(中 略)
大隈〔重信〕伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつつある生徒側の味方をしている。それが中々強い言葉で出ている。代助はこう云う記事を読むと、これは大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる為の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出した。
新潮文庫版、8・89頁
かつてなら喝采されたはずの「大学無償化」も、もはやみーんな方便で言ってるだけダロ、と、有権者の見る目が厳しくなりましたよね。それくらい、高等教育は広げるほどよいとする信仰は、賞味期限が切れつつある。「在官」の大学教員のみなさんの威信低下も、その表れなんで、Twitterでだけイキってても意味ないんすよ(笑)。
じゃあどうするのかの特効薬は、私も持ってないのですが、しかしまずは「正しい問いを立てる」ことが、最初の一歩かなと。
今回はまさに、その糸口になる対談だと思っております! どうぞ、多くの方にお目通しいただければ幸いです。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年10月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。