御礼:米光一成『人生が変わるゲームのつくりかた』に拙著が掲載!

7月に順天堂大学のイベントでお目にかかった、ゲームデザイナーの米光一成さんに、新著『人生が変わるゲームのつくりかた』をご恵投いただきました。末尾の「次に読んでほしい本」のコーナーで、私と小野卓也さんの共著『ボードゲームで社会が変わる』を挙げてくださっています。

7/20(土)に、順天堂大学でボードゲームについて講演します!|Yonaha Jun
以前にもご案内しましたが、順天堂大学の「MEdit Lab」というプロジェクトにお招きいただいて、表題のとおり今月20日のシンポジウムに登壇します。イベントのタイトルはずばり、「医学をみんなでゲームする2」。 医学と社会の接点をどう作っていくかを、専門家と非専門家が協力しあって模索するプロジェクトらしく、ウェブサイ...

そもそも同書の刊行後まもなく、米光さんにはサブスク番組の形で採り上げていただいたこともありました。改めて、御礼申し上げます。

『ボードゲームで社会が変わる』とアフォーダンス|米光一成
『ボードゲームで社会が変わる』とアフォーダンス

お返しにご新著の紹介をと思うのですが、この『人生が変わるゲームのつくりかた』、なんといっても重要なのはゲーム開発のうち、試作品~テストプレイの段階について、その意義と哲学をはっきり書いてくださってること。

それは決して「プロのゲーム作家をめざす!」な人だけじゃなく、人生を生きてる全員に関係すると思うんすよ。実際、米光さんも手元のトランプなどを使って、読者自身が試して体験できる例を盛り込みつつ書かれています。

たとえば「新しいトランプ遊び、思いついたぞ!」として、家族や友達とやってみるのが、新作ゲームのテストプレイ。まぁ、ふつうは既存の遊び方に比べて、たいして面白くはないでしょう(笑)。でも、そうした「お試し遊び」を否定していたら、永遠に新しいゲームは出てきません。

そんなテストプレイの際のコツとして、印象に残る記述がこちら。

プロトタイプは試作品です。とくに最初のプロトタイプは赤ん坊だと思って愛してください。ぼくは、学生がゲームのプロトタイプをつくって、みんなで見せ合うときにこう言っています。

「赤ん坊に『歩けないからダメ』『算数できないからダメ』って言わないだろ? これがない、ここがダメとか言うのではなくて、みんなで育てていこうという気持ちで見ること。かわいいねー、楽しいねー、って良いところを伸ばすように愛すること」

ぜひ、この気持ちで自分のプロトタイプに接してみてください。遊んでもらうときも、このことを伝えてください。

75頁(強調は引用者)

(ぼくはゲームは作ったことないけど)これなんですよねぇ。いまの日本社会が行きづまった理由の根源って、こうしたプロトタイプ段階を「認めない人」が増えすぎたからだと思うんすよ。

たとえばSNSって、最初は思っていることのプロトタイプを見せあい、互いにブラッシュアップする場所だったんですよね。なので「あ、それ(粗削りだけど)面白いすね!」みたいに、ポジティブな声がけが飛び交うはずでした、本来は。

ところがそれが変わってしまう。前に哲学者の千葉雅也さんの指摘を、2022年の『過剰可視化社会』で引いたことがあります。

過剰可視化社会 | 與那覇潤著 | 書籍 | PHP研究所
数値化、エビデンス、タグ化が求められ、価値の「見える化」が過剰に進行するコロナ後の社会を考察。千葉雅也氏などとの対談も収録。

千葉雅也さんは『意味がない無意味』(河出書房新社)に収録されている2014年のエッセイで、彼が07年から利用してきたツイッターの変容について、興味深い比喩で語っています。
元々は思いついたアイデアをなんとなく口にし、相互にやり取りする中で修正を繰り返して作品に仕上げていく「アトリエ」であり「変身」の場がツイッターだったのに、そうした性格が消えていった。
むしろ完成しきった自分の思想や政治的な立場をポジション・トークのように披露し、ぶつかり合うだけの硬直した空間になってしまったと。
(中 略)
人に「見せる」以上は完成形でなくてはダメで、途中で考えや立場を変えてはいけないんだとするプレッシャーが強まり、老熟はおろか「成長」や「成熟」といった概念さえ、成立しない世の中が生まれているように思います。

拙著、72頁(段落を改変)

いまの時代は、「すべてが最初から完成品であってくれ!」みたいな願望が強すぎる。生まれた瞬間、いきなり歩けて算数ができる赤ん坊がいないのと同じで、そんなこと起きるわけないのに。

ところが世の中には困った人たちがいて、「私は初めから完成品です。さぁみんな、100%の正しさを持つ私の主張だけをリツイート!」と言い張ればウケる・売れる・自己承認欲を満たせると。ついつい、そうした誇大広告でビジネスしたくなっちゃうらしいんですなぁ。

そういう人は、呼ばれてもないのに他人のアトリエに首をつっこみ、「こんなのダメ!」「未完成でつまらない!」とケチをつけて回る。そりゃイノベーションも起きないですよ、テストプレイ段階で潰されちゃうんだから。

なにより、それやってたらいつか「あんさんはホンマにそこまで完成してるんすかぁ? その完成はいまの話題と関係あるんすかぁ? 実績を確認させてもらってもいいすかぁ?」みたく、やり返されますよね(苦笑)。

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書評:北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社) 「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある北村紗衣の著書を読んだことがある人でも、本書を読んだという人は、ごく限られているだろう。それが、北村紗衣の現在までの著書4冊すべてを読んだ、私の結論である。 一一要は「こんなに値段が高くて退屈な...

前回の記事で、R. ホガートと佐藤卓己さんの読書論を引いたように、どこかにすごい人がいて完成品を届けてくれる、とする発想は、別にすごくない多くの人たち(=私やあなた)を「見物人の世界」に押し込める。要は、みずから試行錯誤する主体性を失い、悪い意味でただの消費者になってしまう。

そうではなく、誰もが自分で楽しみを見出し、周囲と歓びを分かちあう「おれたちの世界」でこそ、「より積極的な、より充実した、もっと協同で楽しむ種類の娯楽」が育つ。ゲームを囲んで互いに助言しあい、こうしたらさらに面白いかも、と感想戦を語りあうのは、そのいちばんシンプルな実践だ。

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大切なのは、この社会にテストプレイの空間をもういちど、取り戻すこと。米光さんの本はゲームに関心がない方でも、そうした視点に気づける好著になっています! ぜひ、多くの方が手に取られますように。

(ヘッダーは、同書の裏オビより。最後に開発秘話も明かされる米光さんの大ヒット作『はぁって言うゲーム』の、特設ページはこちらから!)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年10月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。