トランプ政権の登場によってロシア・ウクライナ戦争に新しい局面が訪れようとしている。ただしトランプ氏が大統領に就任する1月20日までは、私が「地獄のレイムダック・バイデン政権」と呼んできた時期が、最悪の形で残っている。あと2ヶ月で何が起こるのかは、1月20日以降に何が起こるのかとあわせて、大きな懸念点である。
8月にウクライナがクルスク侵攻という合理性を欠いた行動に出て「膠着状態」に抵抗する行動に出て以来、明らかに「膠着状態」は崩れた。そのウクライナの冒険的行動の結果、ロシアが有利になり、ロシアの劇的な支配地域の拡大が進んでいる。
2014年ドンバス戦争以降続いているドネツク・ルハンスク方面の東部戦線で、ウクライナがロシアに譲ったことがない地域の陥落が続いている。2022年後半にウクライナがロシアから奪還した北部のハルキウ方面でもロシアの再奪還が進み始めていている。クルスクでは、スジャという国境のロシア側の町を要塞にして立てこもるウクライナ軍を、ロシア軍の包囲網がジリジリと追い詰めている状態だ。
トランプ氏が選挙戦中に「就任したら停戦させる」と公言し始めたのは、「膠着状態」が続いていた時だ。ロシア・ウクライナ戦争の情勢は、その時から比べると、大きく動いた。一年前の戦場の前提は、もはや存在しない。
急速な前進を続けているロシア軍は、止めにくく、止まりにくい。一日でも長く戦争が続けば、その一日分だけ支配地が広がる。長期戦でキーウまで進軍するつもりでなければ、ロシアとしては1月20日までに進軍したい地点まで進軍しておくのが望ましい。つまり今ロシアには、あと2ヶ月の間に大攻勢を仕掛けて、1月20日までに支配地を広げ切っておきたい、という強力な動機づけが働いている。
ウクライナのゼレンスキー政権は、NATO諸国の直接介入でなくても、さらなる桁違いの大量の軍事支援を長期に渡って獲得することを通じて、ロシア軍を駆逐して戦争に完全勝利を収める、という夢を捨て切れていないという立場だ。戦争の継続を強く望む立場を維持している。その方針と矛盾する行動を取る国内の分子に目を光らせ、気に入らない発言をする外国指導者を次々と糾弾している状態である。
戦場で負け続けている側が、停戦の可能性を語ることすら拒否している状態になっているので、戦争は終わらない。1月20日までにロシアがどこまで支配地を広げるかが、当面の注意点となる。次に、1月20日以降のアメリカからの強烈な圧力に対してゼレンスキー大統領どのような方策を取ってくるのかは、全く不透明だ。
ゼレンスキー大統領は、停戦となった瞬間、政権維持に困難をきたすことになると思われる。戦争の停止とともに、国内の様々な困難な課題が一気に噴出してくる。ウクライナ国内の世論は、停戦容認派と反対派が複雑な形で分かれていくと思われるが、それにともなってキーウにおける政治層の間の確執も生まれてくる恐れがある。ゼレンスキー大統領の戦時指導体制下の具体的政策の一つ一つの妥当性も、問われ直されていくことになるだろう。
戒厳令下で選挙を無期延期し続けているゼンレンスキ―大統領が、選挙の日程を設定せざるをえなくなったときに、どのような政治的立場をとることになるのかは、不明だ。立候補すれば当選確実と言われるザルジニー元司令官の去就も、大きな要素である。
独立した1991年以降の30年間に、ウクライナは何度も繰り返し、選挙に伴う騒乱と政争を繰り返してきた。ロシアとの戦争の完全勝利のみが、そうした政局の不安定性に終止符を打つ、というゼレンスキー派の方々の気持ちはわかる。だが、実現は困難である。先行きは不透明だ。
さて、情勢を反映して、日本のウクライナ政策も、変わっていかざるをえないだろう。石破政権は、まだ外交の足腰が定まっていない。岩屋外相がキーウを訪問したが、これまでの外交姿勢の継続を強調することで、石破政権の外交軸の確立にもつなげていきたいということだろう。だが裏を返せば、事態の展開にあわせた政策調整を準備する余裕がまだない、ということでもある。
日本は今まで武器提供を行わず、軍事作戦面に関する国際的な協議体制にも加わってこなかった。岸田首相が「国際社会の法の支配」「欧州大西洋の安全保障とインド太平洋の安全保障のりながり」といったことを好んで口にしていた時期はあった。しかしそれらの大局的な政策的方向性を具体化する努力は、実際には進められていない。いずれも抽象的なテーマのままで放置され、言及されることもなくなって忘れられ始めている。
日本としては、このまま停戦交渉はもちろん、その後の複雑で深刻な政治情勢の転換にはなるべく関わらず、穏健なウクライナとの関係の維持に努めていきたい、ということだろう。
私個人としては、これは残念なことであると思っている。私は日本政府に、「東京事務所を設置してもらう」といったことよりももっと踏み込んだICC(国際刑事裁判所)支援をしてほしかったし、「欧州大西洋とインド太平洋のつながり」の観点からウクライナの黒海の貿易港オデーサを注目した貿易政策を構想してインド洋沿岸諸国と協調体制もとってほしかったと思っている。今からでも遅くはないが、残念ながら石破政権には余裕がない、というのが実情だろう。
少し事情が異なっているのが、メディアや学者層である。今回のロシア・ウクライナ戦争をめぐっては、明白にウクライナ擁護・ロシア非難の世論が、政府の方針にも沿う形で、形成された。
問題は、それが翼賛的に機能して、異論を口にする者を糾弾する風潮につながっていることだ。硬直化した感情的立場と合致しない意見や政策論はもちろん、ちょっとした言葉尻の不愉快ささえ許さないような政治運動層ができあがってしまっている。
正直、自分の言説や立場を守ることに躍起になって感情的になり始めているような方も見受けられる。
非常に良くないのが、ウクライナ政府が「ロシア人を〇〇人殺した」という発言だけをするようになっていることにあわせて、「ロシア人を〇〇人殺した」ということだけを述べ続け、実際の戦場ではロシアがウクライナを圧倒して支配地を広げていることには目を向けない、といったことだけではない。
戦争の継続が明らかにウクライナ側に不利であることが、語ってはいけないタブーになっている。停戦合意と和平合意の違い、領土奪還と安全保障の違い、といった非常に基本的な概念構成さえ、メディアのみならず、学者層が、拒絶している。これでは議論にならない。
ただただ意固地になって、「ウクライナを支持しているのか?国際秩序を守る気があるのか?」といった問いを発しているだけでは、何も前に進まない。あらためて現実を見据えた冷静な議論の立て直しが必要だ。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。