NHK大河ドラマ「光る君へ」12月15日放送の最終回では、藤原道長の死あたりで終わる。日本文学史上最高傑作でありながら、大河ドラマにはなじまなかった『源氏物語』を、『紫式部日記』の登場人物に、『源氏物語』のキャラクターを投影するという手法でうまくドラマにしていた。
なにはともあれ、平安貴族たちの人生とか価値観、そして朝廷政治の意思決定プロセスを現代人に紹介したのは意義深いことであった。
このほどダイヤモンド・オンラインに『【光る君へ】道長の子ども12人の「意外な勝ち組」とドラマで描かれなかった「道長の死後」』というタイトルで、「勝ち組」と「負け組」に分かれた道長の12人の子どもたちについて解説しながら、藤原氏全盛から院政の時代を経て武士の時代になるまでを眺めてみたのでご一読いただきたい。
そして、本稿では、12人の子どもたちのなかでも、おそらく、いちばん幸福な人生を送った、五女(下から三番目)の人生を取り上げてみたい。
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道長(966~1028)には、正夫人の源倫子(宇多源氏)と第二夫人の源明子(醍醐源氏)がいて、それぞれ6人ずつの子がいた。
倫子は宇多天皇の曾孫で、父は左大臣源雅信で、明子は醍醐天皇の孫で父は左大臣源高明だ。母の実家も明子の方が上なのだが、高明は最後に失脚したのに対して、雅信は左大臣として君臨して富裕でもあったので、立場が逆になった。
このために倫子は正妻、明子は第二夫人的に扱われ、子どもたちの扱いもだいぶ差がつけられた。道長としては、兄弟で争わないように手を打ったといえる。
そんなこともあって、尊子も天皇や東宮の元に入内するのでなく、村上天皇の第七子である源師房の妻とされたので、。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは尊子だけで、周囲は怒ったという。明子の周囲はおおいに不満をもったらしい。
師房は、頼通や敦康親王(藤原定子の子)の夫人たちの弟である。道長は師房を高く評価し、賴通に男子がないままだったら、師房を摂関に抜擢してもいいとすら考えていたという。
おそらく、この師房の兄弟は、いずれも魅力的な人物だったようだ。姉の隆姫女王(995-1087)は、藤原頼通と結婚して深く愛され、子がないのに賴通は内親王などほかの妻をめとることを拒否した。
次姉は敦康親王の妃となり、これも深く愛されたのは『光る君へ』でも描かれていたとおりである。その次の姉は、伊勢斎宮だったが、だいぶ年齢を重ねてから、頼通の同母弟である教通の継室となった。
師房と尊子は、3男3女を得て、源俊房は左大臣、顕房は右大臣となった。娘2人は頼通の子に嫁ぎ、摂関家にDNAを残した。尊子は85歳、夫の師房も70歳まで存命し、子孫は村上源氏として、源平時代には御堂流と競い、名門として現代にまで及んでいる。久我家が嫡流だが、中院家、堀川家、土御門家、久世家、東久世家、植松家、六条家、梅渓家、愛宕家、千種家、岩倉家、北畠家等を出した。
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