12月29日の『産経(デジタル版)』に往年の「産経抄子」石井英夫氏の訃報が載った。彼の後の「産経抄子」は輪番制の様である。石井(以下、敬称を略す)は筆者の、郷土(横須賀市)のみならず、高校と大学学部の先輩でもある。謹んでご冥福を祈りたい。
筆者が『産経』を読み始めたのは平成の初めだから、この先輩に私淑してほぼ30年になる。仕事のストレスで喘息に罹ったのがきっかけだ。横浜から品川までの満員電車が苦痛になり、止むを得ず転勤した三重での単身生活には、朝刊だけの『産経』がコストもゴミ出しも楽、と言うだけの理由だった。それは3年後に本社に戻った大井町の社宅アパートでも続いた。
それにしても『産経』の紙面は刺激的だった。他紙を並行して読んでいた訳ではないのでこういう言い方もナンだが、とにかく他と違うのだ。01年に産経新聞社が上梓した『産経が変えた風』なる自画自賛本の帯にもこう書いてある。
「朝日」と比べて下さい。日本を危うくする論調に良識をもって立ち向かう産経新聞。文化大革命の実情をいち早く見抜き、北朝鮮による日本人拉致を初めて世に問う。わが国を代表するクオリティーペーパーが、時代の風を変える。
それから4分の1世紀、拉致被害者は一部が帰国したし、『朝日』によるいわゆる従軍慰安婦の捏造も暴かれた。そして『産経』は「時代の風」のみならず、筆者の歴史観やものの味方をも変えてしまった。同紙の「正論」欄と「産経抄」に別人にされた格好だ。
14年3月にリタイアし整理した荷物に、「正論」や「産経抄」などの「切り抜き」が詰まった段ボール箱があった。三重→大井町→台湾→自宅の30年間そばにあった。そこに居る「正論」執筆陣も渡辺昇一、岡崎久彦、木村汎、屋山太郎、西尾幹らは既に亡く、今や加地伸行と平川祐弘を残すのみだ。そして「産経抄子」も逝った。
19年に、来春筑波大学に進学する悠仁殿下に半藤一利がご進講をしたことがあった。私は眉を顰め、「平川祐弘辺りに改めてご進講を依頼し、半藤の話を中和すべき」、と本欄に書いた。昭和天皇がその人格形成期に乃木希典や杉浦重剛に接したことは良く知られている。
その伝でゆけば、筆者の人格は四十を過ぎて『産経』の「正論」と「産経抄」によって再形成されたといえる。「正論」を読み、また石井の「産経抄」をノートに書き写して、彼の当意即妙の文章や言葉遣い、そして社会事象の捉え方などを学んだからだ。
石井が師と仰いだ大の本読み山本夏彦は、「俺は斎藤緑雨に山田美妙を紹介してもらった」(人物名はうろ覚え)といった意味のことを書いている。読書を通じて人を知る、ほどの意味だろう。筆者も「正論」執筆陣にも石井にも会ったことはない。が、その人となりは良く知っている。
既存メディアの凋落が著しい今日、『産経』の存在は貴重だ。SNSの発信やYouTube番組もその多くは既存メディアが取材した情報を基にしている。既存メディアにしっかりしてもらわねば困るのだ。石井も草葉の陰から、学部と社の後輩阿比留瑠比の活躍を祈っていることだろう。