岩屋外相が中国訪問時に受けた取材で、次のように語ったことが、話題だ。
中華文明というのはアジアの大文明。漢字や行政制度、宗教など、すべて中国から学び、日本の国はそこからできてきた。
歴史認識として間違っているところはないと思われるが、もちろん「それだけではない」と言えば、その通りだろう。中国訪問時に、中国側から見た視点を強調して発言したものであることは確かだろう。
いずれにせよ、国際政治情勢を考えるならば、何が正しいのか、ということをこえて、意味深いものがある。
サミュエル・ハンチントンは、1990年代初頭に『文明の衝突』を著したとき、日本を一つの単独の文明の単位とした。当時のアメリカでは、冷戦終焉後世界の最大のアメリカにとっての脅威は日本だ、といった議論があった。
1990年代半ばの世界経済における日本のGDPのシェアは17%を超えていた。世界人口がまだ50億人台だった当時、1億2千万人の日本の人口がまだ拡大を続けていた。一つの文明とみなすにふさわしい存在感があったということだろう。
1995年でみたとき、日本のGDPは、中国のGDPの約7.5倍であった。その15年後に、両者の規模は逆転を起こす。そしてさらに15年ほどがたち、今や中国のGDPは日本の3.5倍だ。
近隣国の間で、わずか30年ほどの間に、ここまで劇的な国力の逆転が見られたのは、極めて珍しい。この規模となると、ほとんど類例がないのではないか。この時代を生きた人々の意識構造が、なかなか現実に追いつかないのは、やむを得ないところもあるかもしれない。
30年前、アメリカ人の多くが日本を脅威だと感じていたとすれば、もはやそのような気持ちは、アメリカ人の心にはほとんど存在していないだろう。中国の脅威を和らげてくれる西太平洋に浮かぶ同盟国であるはずだ。
日米同盟堅持の観点からは、この意識変化は悪い事ではない。そのため日本の外交政策は、ある意味で冷戦時代よりもあからさまに日米同盟一本押しの仕組みになった。かつて冷戦時代には、建前と本音のような仕組みの中で、必要悪として日米同盟が理解されていた面があった。今日では、埋没し続ける自国の国力を補うために、中国などの脅威に対抗するために、日米同盟を肯定的に捉えようとする気運が高まったと言えるように思われる。
だが、だからといって、日本が「西洋文明」の一部になったと本気で考える者は少ないだろう。地政学的事情をふまえた国際政治の論理から日米同盟を重視し、それにともなった政治経済、あるいは文化面の連携を深めている。しかしその連携が「文明」といった言葉で括られるような域にまで達したと感じている者は、少ないだろう。
仮に日本が、ハンチントンが考えたように、一つの単独の文明を持つとすれば、その文明の存在感は、21世紀に入って、日々、減少している。
経済の停滞が常態化する中、日本は遂に人口激減の時代に突入した。中国など他のアジア諸国も人口減少時代を迎えるはずだが、先駆ける日本の人口減少のペースは、事前のあらゆる予想を覆す急激なものだ。
人口減少に歯止めをかけるための政策は重要だ。だが、成果が見られる政策実績が何一つない中で、しかも財政出動を必要とする目の前の問題に忙殺されている中で、国力の衰退が今後も長期的に続いていくことに、疑いの余地はない。
少なくとも今世紀を通じては、日本が20世紀末の存在感を取り戻すことができるような可能性はないだろう。それどころか、われわれが知っている一つの文明を持つ日本という国が維持されるのか、消滅してしまうのか、それこそが問われている。
日米同盟を外交及び政治経済の柱に据え、なお一つの小さな文明圏として存在し続ける島国・日本の国のあり方は、どのようなものか。目立った国力の発展を見ることがなかった一年を、またもう一つ終えるときにあたり、真剣な思考の実験が必要になっている。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。