新年になったところで時代の節目を考える機会になっている。たとえば今年は昭和で数えて100年目になるのだという。
昨日、ミュージシャンの話を書いた。自分が「カラオケ」世代であることについてふれた。重ねて思うことがある。
外国人を招いた会議の後、都心でカラオケルームに行くときがある。研修であれば、自分たちで演奏しながら、皆で歌ったりするときがある。私の属している国際協力系の業界では、国籍を超えてわかりあう定番の曲は、「We Are the World」である。
比較的若い世代とも接するようになって、感じたのは、「We Are the World」は新しい曲に更新されたりするものではなく、後にも先にも「We Are the World」は「We are the World」だけだ、ということだ。つまり若者版の「We Are the World」というものはない。
1984年末にイギリスのミュージシャンたちが東アフリカの飢餓を救援するためのチャリティ曲として「Do They Know It’s Christmas?」をリリースしたところ、大ヒットとなった。そこでマイケル・ジャクソンらが呼びかけ人になり、アメリカの当時の一流ミュージシャンが一堂に会して、翌1985年にレコーディングしたのが、「We Are the World」だ。空前の大ヒットとなった。
1985年夏には、世界各地で同時にアフリカ救援の大規模チャリティコンサート「Live Aid」が開かれた。世界130カ国で放映されて19億人もの人々が視聴したとされる。
1960年代にビートルズやローリングストーンズが「ロックンロール」で世界を席巻したとき、「ロックミュージシャン」は「反体制」の象徴であった。1969年のウッドストック・コンサートは、その頂点であったと言ってよいだろう。1960年代末には、ジョン・レノン氏らも深く関わったベトナム反戦運動が盛り上がっていた。
1970年代以降、この反戦運動の流れは、変化を見せる。国際情勢で言えば、帝国主義国家の植民地政策及びその後遺症に苦しんでいたアジア・アフリカの人々が、「脱植民地化」の後、次々と専制独裁や武力紛争に陥っていったことが大きい。欧米諸国が問題の根源だ、という認識が変化し、欧米諸国は救援者だ、という認識が広まっていった。
ヨーロッパでも学生運動の嵐が吹き荒れた。その頂点は、ドゴール大統領を退陣に追い込んだパリ「5月革命」だが、当時の学生運動の指導者の中に、後に「国境なき医師団(MSF)」を設立するベルナール・クシュネル氏らがいた。MSFがまず大活躍して一躍有名になったのは、独立直後のナイジェリアで勃発した凄惨な「ビアフラ紛争」の現場に、国境を越えた医療チームを率いて「人道介入」してからだ。
後にイギリス首相となるトニー・ブレア氏は、その当時にオックスフォード学生連盟の会長として活動していた。ビル・クリントン元大統領が、1960年代末にベトナム反戦運動に参加して、マリファナを吸った経験もあると認めたことは、有名な逸話だろう。クシュネル氏もフランスで外務大臣を務めたことがある。
1985年の「Do They Know It’s Christmas」、「We Are the World」、「Live Aid」は、ミュージシャンたちが、反体制運動を象徴するのではなく、主流派化していく時代を迎える転機だった。政府の政策への反対を訴えるのではなく、アフリカの飢餓問題の解決のための人道援助団体への募金を呼び掛ける、という点で、「保守革命」が起こった1980年代を象徴する出来事だった。
ミュージシャンたちは、大人を信じるな、と叫ぶのではなく、共に世界の問題を解決しよう、と訴えるようになったのである。
1980年代は自由主義陣営が、共産主義陣営に対して、経済的優位とあわせ、文化的優位も主張するようになった時代だ。共産主義革命が「第三世界」を席巻した時代や、欧米諸国が体制変革を叫ぶ学生運動に悩まされる時代が終わり、新しい自由主義陣営優位の時代が訪れ始めたのが、1980年代だ。その直後、冷戦体制が崩壊した。1990年代は、「自由民主主義の勝利」が一つの大きな共有意識となる時代となった。
私は1985年当時、高校2年生だったが、自分がロック・バンドをやっていたこともあり、「ライブ・エイド」のテレビ画面にくぎ付けになって興奮していた。だが、歳を取ってから、1985年という次代の節目の意味を考えるようになった。
1985年は、ソ連でゴルバチョフ書記長が就任し、「ベレストロイカ」が始まった年だ。また「プラザ合意」が形成され、世界の金融体制に自由主義的な変革がもたらされた年でもあった。
2025年の今、あらためて今からちょうど40年前の1985年の意味を考えると、それがちょうど1945年から40年がたった年であったことに気づく。
第二次世界体制の後に作られたアメリカ主導の自由主義的価値に基づく国際政治経済システムは、冷戦時代を通じて、ソ連に代表される共産主義諸国の挑戦にさらされていた。冷戦構造のイデオロギー闘争が展開する中で、両陣営にとって、「脱植民地化」によって生まれた「新興独立諸国」とどのような関係を作っていくかは、一つの大きな課題であった。
自由主義陣営の勝利として歴史に記録されることになる冷戦終焉は、「We Are the World」に代表される自由主義諸国の発展途上国への支援によっても、準備された。「第三世界」の問題を解決するのも、「市民社会」の自発的な創意も喚起した自由主義世界だ、という理解は、共産主義体制の存続にとっても不利なことだった。
1989年東欧革命の際、東欧諸国の幾つかの諸国で、共産党政権の打倒に立ち上がった若者の集団が、欧米諸国のロックミュージックをメッセージにしていたことなどが歴史に記録されている。自由主義陣営の音楽は、反共産主義体制のメッセージとなったのであった。40年間にわたる冷戦の歴史の一つの帰結であった。
だが、1985年からも、またさらに40年がたった。1990年代には、自由主義世界の勢力は圧倒的であるかのようにも感じられた。発展途上国の問題を解決できるかどうかも自由主義「先進国」の努力にかかっている、という意識が自然に浸透した。しかしそのような風潮は、21世紀に入ってからは、徐々に減退してきている。自由主義諸国は、モデルとしての魅力も、救済者としての魅力も、減退させてきている。
「対テロ戦争」「移民排斥」「格差社会」など、21世紀には、新しい構造的な問題が深刻化している。若者文化も変化したように見える。社会問題を個人の視点で、早口でまくしたてるヒップホップ系の音楽が、大衆文化市場を席巻するようになった。K-POPが一つのジャンルとして意識されたり、オルタナティヴ・スタイルと言われるアプローチが主流となったりしている。
過去40年間、新しい「We Are the World」は生まれてきていない。それが何を意味にしているのかは、同時代のわれわれにはまだ判然としないところがある。
それにしても国政社会の全体動向から見ても、自由主義諸国が、40年前の輝きにすがって生きていくには、限界がある、ということだけは言えそうである。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。