連日、メディアは中居正広氏のスキャンダルに端を発する「フジテレビ問題」で大荒れだ。1月27日の会見では社長・会長の辞任が発表された。
当事者どうしが法的には和解しており、守秘義務のため事件の内実がまったく不明にもかかわらず、ここまで急激に事態が進むのは異例である。もちろんそれは、中居氏個人の不祥事に留まらず、フジテレビが「会社ぐるみ」で不適切な慣行を続けてきたのではとする疑惑に由来する。
裏方のはずのスタッフをキャストと同様に画面に映し、悪ノリも全然アリな内輪ネタで笑いをとる芸風で、1980年代にフジテレビは娯楽番組の王様へと躍進した。その「成功体験」をずっと自明視し続けたことが、今回の不祥事を招いたのではと指摘する声は多い。
たぶんそれは当たっているんだろうけど、個人的にはこの間、また別の「1980年代」が気になっていた。日本で初めて「ポストモダン」がブームになった時代で、その頃流行した概念にツリーとリゾームがある。
元ネタは、フランスの思想家だったドゥルーズとガタリ。日本で広まるきっかけは、1983年にベストセラーとなった浅田彰『構造と力』だった。
ツリー(樹木)とは上下の階層や、部局どうしがどこで接点を持つかが明確な組織のイメージを指す。近代的な官僚制とか、上意下達の軍隊の指揮系統は、ツリーの典型だ。
対してリゾーム(根茎)とは、あらゆる要素が絡まりあうように互いにつながっており、結果として系統も境界も不明で、内部と外部すら区別できない関係性の束を指す。こっちの方が「なんでもアリ」で楽しいじゃん的なノリで、「都市の本質はツリーではなく、リゾームにある」みたいに書くのが、あの頃の知的なファッションだった。
だけどホントの世の中は、そこまで単純じゃない。殊に日本社会の面倒な点は、タテマエとしては「ツリー状の(=近代的な)命令系統」で動くことになっている組織が、実際には個々の現場を取り巻く「リゾームなつながり」、不定形の空気やノリで運営されて、乖離が著しいことにある。
2017年に米国で #MeToo 運動を招いた映画プロデューサーのように、もし個別の有力者(たとえば中居氏)が「命令だからやれ」として、不当な性的搾取を強要したのなら、ツリー型のハラスメントだから、採るべき対応は明瞭だ。そうした人を特定し、倫理違反に問うて、クビにすればいい。
ところが実際に起きたことは、おそらくそうではなかった。
フジの編成幹部が中居氏の(品の悪そうな)接待に「他局の女子アナ」まで動員していたとする報道が話題だが、あたりまえだが他の会社の社員に「業務命令」は出せない。この業界はこういうトコだから、みたいなリゾーム状の空気で、職務ですらないものを断りにくくさせる、そうしたやり方だと責任も不分明になり、なくすのが難しい。
「#日枝久出てこい」というハッシュタグがずっと流行っているけど、グループのトップのクビを取ったら問題が解決するというのは、典型的なツリー型の発想だ。上意下達の伝達系統で起こされた不祥事なら、文字どおり「頭を切り落とせば」、四肢の動きも止まる。
しかし、現時点でも「院政」のように企業を統治している(らしい)人から、肩書を取り上げても、より深く「奥の院」に籠って同じことが続くだろう。不祥事が起きた後、誰に聞いても「私は “命令” は出してません」としか答えない――それが必ずしも ”嘘” でもないリゾーム状の組織の機能不全を止めるには、遥かに知恵と勇気を要する。
もう一度確認するけど、こうしたことが指摘されたのは1980年代、バブルの空気の下でフジテレビがぐんぐん視聴率を伸ばしていた頃だ。
当時から、どこに問題があるのかを、知的に考える人は知っていた。だけど今日に至るまで、どうすれば解決できるのかが、誰にもわからない。
今回もフジテレビを叩く側であれ、守ろうとする側であれ、ホンモノの問題に踏み込まないニセモノの解決策が手っとり早く採用されて、結局なにも変えないのではと憂えざるを得ない。すべてが楽しく、知的にキラキラして見えた80年代の終わらせ方を、私たちはいまも手にしていないのだ。
(ヘッダー写真は2001年、特番で往時を懐かしむとんねるずとスタッフ陣。右から2人目が辞任する港社長。サンスポより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年1月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。