現在(2025年)放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう」で言及があったように、平賀源内と杉田玄白は親友だった。源内が亡くなった時、玄白は私財を投じて墓碑を建てたほどである。
二人の交流の始まりは明確でないが、源内主催の物産会(全国各地の薬種や産物を展示し交換する博覧会)あたりで知り合ったものと見られる。
二人の関係は、当初、才気煥発な源内の方が主導権を握っていたようである。明和2年(1765)の春、源内や玄白らは、オランダ商館長の江戸参府に随行して来たオランダ語通訳の吉雄幸左衛門を旅宿長崎屋に訪ねた。吉雄幸左衛門はオランダ製タルモメートル(温度計)を自慢げに披露したが、源内は笑いながらその製法を即座に説明して、同行の玄白ら一座を驚かせた。源内は明和5年には、所蔵の蘭書(オランダ語書籍)を参照して、実際に温度計を造っている。

平賀源内
Wikipediaより
もっとも源内はオランダ語を読解する能力はほとんどなかったらしく、彼が買い集めた蘭書は基本的に図譜(図鑑)または挿絵入りの本である。オランダ語が読めなくても、図だけである程度内容の見当はついたのだろう。分からないところは通訳に尋ねれば事足りると思っていたようである。
両者の関係が逆転したのは、言うまでもなく、安永3年(1774)の玄白らによる『解体新書』の刊行である。『解体新書』は、ドイツ人医師・ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書のオランダ語訳書『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳したものである。彼らの共同翻訳の様子は、玄白の回顧録『蘭学事始』に詳しい。

杉田玄白
Wikipediaより
小浜藩医だった杉田玄白は、同僚の中川淳庵がオランダ人から借りてきた『ターヘル・アナトミア』を、江戸の小浜藩邸で見て驚いた。文字は一字も読めなかったが、そこに掲載されている精緻な解剖図に目を見張ったのである。その洋書はとても高価で玄白には手が出ないものだったが、玄白は藩に事情を話し、藩の予算で購入してもらった。
明和8年(1771)3月、杉田玄白・前野良沢(中津藩医)・中川淳庵らは、江戸千住の小塚原の刑場で、死刑囚の腑分け(執刀者が死体の臓器を腹中から取り出すこと)を見学した。目の前に現れた諸臓器・筋骨肉の実型が、ことごとく『ターヘル・アナトミア』掲載の図と寸分違わぬことに、玄白らは驚いた。
帰路、玄白らは感動を語り合った。そして玄白は『ターヘル・アナトミア』の翻訳を提案した。良沢は「以前からオランダの医書を読みたいと思っていたが、同志がいなかった。私は去年長崎に行き、オランダ語も少々分かるので、それをとっかかりにしてみなで読んでいこう」と応じた。
玄白は「みなで力を合わせれば必ず上手くいくはず」と答え、善は急げということで、翌日には良沢の家に玄白・淳庵らは集った。この時、良沢は49歳、玄白が39歳、淳庵は33歳であった。漢方医学(東洋医学)を修めた彼らが一から西洋医学を学ぼうというのだから、現代風に言えば、まさにリスキリングということになる。
とはいえ、どこから手をつけていいか分からぬ状況であった。何しろ玄白などはアルファベットすら知らなかったのである。玄白は『蘭学事始』で「かのターヘル=アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く」と述懐している。当時、江戸にはオランダ語のできる者が皆無であり(オランダ語の通訳は長崎にいた)、良き師につくというわけにもいかなかった。オランダ語の辞書もなかった。
彼らが考え出した方法は次のようなものであった。臓器など身体の内部構造のことは複雑で分かりにくいので後回しにする。『ターヘル=アナトミア』の巻末附図の第1図として、男子の後向きと女子の前向きの全身図が掲載されている。身体の各部にはアルファベットや数字の符号が付されており、本文部分のページには符号に対応した説明文が記されている。そして手や足といった身体表面の各部の名称はみな知っていることなので、そこから該当するオランダ語を探していこう、というのである。
たとえば、全身図の一番上にはAと書かれていて、Aの説明文を見ると、最初に「Caput, het Hooft, is de opperste holligheid.」と記されている。とすると、「Caput」「het Hooft」とは「頭」の意味であり、その後の文は頭の説明であろうと推測できる。おそらく、そんな感じで読み進めていったのだろう。ちなみにCaputはラテン語で「頭」、het Hooftはthe hed、オランダ語で「頭」である。玄白は『蘭学事始』で翻訳を始めた頃は「ヘット(het)」も知らなかったと振り返っている。
彼らは毎月6、7回、良沢の家に集まって議論しながら読み進めた。まさに会読である。最初のうちは「眉とは目の上に生えた毛である」という文章を解読するのに1日を要する有様で、最初のうちは1日で平均1行も訳せなかった。
だが、皆で悩みながらアイディアを出し合う日々は苦しくも楽しい日々であった。苦心の末に単語を訳せた時の喜びは、何物にも代えがたかった。会合を1年余りも続けているうちに、訳語も次第に増加していき、簡単な箇所は1日に10行以上も訳せるようになったという。
この翻訳作業は1人では決して成しえなかっだろう。対等な関係で、各々が意見を出し合い、討論しながらパズルを解くように翻訳していったからこそ、途中で挫折することなく続けられたのである。
玄白は『蘭学事始』で、翻訳を始めて2、3年が経過すると、会合の日を心待ちにするようになり、前日から早く夜が明けないかと胸が弾み、子どもがお祭りを見に行くような気持ちになったと語っている。このような勉強会、読書会が、日本の西洋学問の黎明期に絶大な効果を発揮したことは疑いようがない。
一方、移り気な源内は様々な事業に手を出しては失敗し、腰を据えてオランダ語を学習することはなかった。皮肉なことに、前回紹介した秩父地方の中津川村における源内の鉄山事業が挫折した年に、『解体新書』は刊行されているのである。
分からないところはオランダ語通訳に聞くと言っても、通訳は長崎にいるので、江戸にいてはそれも思うに委せない。源内のオランダ博物学の研究は行き詰ってしまった。所蔵の蘭書を翻訳するという計画も立ち消えになった。『解体新書』の刊行を知った源内は、「いろいろの物ごのみ」によって翻訳事業を成就できなかった我が身を嘆く自嘲気味の狂歌を詠んでいる。
源内と玄白は、まるで兎と亀のように対照的である。日本の蘭学において不朽の名声を残したのは、文芸や絵画、陶芸、宣伝広告などあらゆる分野で人々の注目を集めた才人の源内ではなく、亀のようにコツコツと努力した玄白の方であった。現代を生きる我々も学ぶべき教訓であろう。