フランシスコ教皇の教会路線は継続か

ローマ・カトリック教会最高指導者フランシスコ教皇は21日午前7時35分(現地時間)、死去した。88歳だった。バチカンによると、死因は脳卒中と心不全だった。南米出身でイエズス会出の初のローマ教皇フランシスコは今年3月で教皇在位12年を終えたばかりだった。

フランシスコ教皇インスタグラムより

フランシスコ教皇は20日、キリスト教会最大の祝日の復活祭(イースター)ではサン・ピエトロ広場で行われた復活祭ミサを代理人に委ね、自らは車椅子でサン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せると、広場に集った約3万5000人の信者たちから暖かい拍手で迎えられた。教皇は「復活祭おめでとう」と皆に挨拶し、記念ミサ後、サン・ピエトロ大聖堂のロッジアから「ウルビ・エト・オルビ」の祝福の言葉を述べた。ただし、イースターのメッセージはディエゴ・ラヴェッリ儀式長が代読した。その後、フランシスコ教皇はオープンカーに乗ってサン・ピエトロ広場を通り、信者たちの歓声に応えていた。ちなみに、フランシスコ教皇は20日早朝、ローマ訪問中のバンス米副大統領と会見するなど、最後までローマ教皇としての職務を全うした。

フランシスコ教皇は2月14日、気管支炎の疑いでローマのジェメッリ総合病院に入院した。入院当初は気管支炎といわれたが、その後、両肺に炎症が広がっていることが分かった。教皇の容体が悪化し、一時期、持続性喘息性呼吸危機の症状となり、酸素呼吸が行われ、血液検査で血小板減少症と診断され、輸血が必要となったほどだ。同教皇は3月23日になってようやく退院したが、あと2か月余りは絶対療養が必要といわれていた。病院関係者の話によると、フランシスコ教皇は入院中、2度生命の危機に直面したという。

少し、フランシスコ教皇の歩みを振り返りたい。アルゼンチン出身のフランシスコ教皇はコンクラーベで選出される前までは枢機卿の中でもその存在が余り知られていなかった。同教皇の選出は多くのカトリック信者にとってサプライズだった。

コンクラーベ前の準備会議(枢機卿会議)が開催されたが、ブエノスアイレス大司教のホルへ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(現ローマ教皇フランシスコ)はそこで教会の現状を厳しく批判するショート。スピーチをしている。同枢機卿は「教会は病気だ」と述べ、教会の刷新の必要性をアピールしたのだ。同発言は多くの枢機卿の心を捉え、南米教会初の教皇誕生を生み出す原動力となった。

12年前、フランシスコ教皇が語った内容を紹介する。「福音を述べ伝えるためには、教会は(垣根から)飛び出さなければならない。自己中心的な教会はイエスを自身の目的のために利用し、イエスを外に出さない。これは病気だ。教会機関のさまざまな悪なる現象はそこに原因がある。この自己中心主義は教会の刷新のエネルギーを奪う。2つの教会像がある。一つは福音を述べ伝えるため、飛び出す教会だ。もう一つは社交界の教会だ。後者は自身の世界に閉じこもり、自身のために生きる教会で、魂の救済のために必要な教会の刷新や改革への希望の光を投げ捨ててしまう」。

ベルゴリア枢機卿の演説内容は現教会体制への厳しい批判だった。こんな批判をコンクラーベ前の準備会議で発言した枢機卿が90%以上の枢機卿たちの支持を得て教皇に選出されたのだ。

あれから今年3月で12年が経過した。フランシスコ教皇は前任者のベネディクト16世とは異なり、信者たちやメディアとの接触には積極的に応じてきた。謙遜を重んじ、その生活スタイルは質素だった。ただ、教会の刷新への情熱はあったが、バチカン内の保守派聖職者の抵抗もあって、多くは空振りに終わった。

それ以上に、カトリック教会の聖職者の未成年者への性的虐待問題が世界の教会で次々と発覚していったことで、フランシスコ教皇はその対応に忙殺せざるを得なくなっていった。フランシスコ教皇の過去12年間、聖職者の未成年者への性的虐待事件問題が影響を与え、教会から脱会する信者が増加する一方、聖職者不足が深刻となり、羊飼いのいない教区すら出てきた。聖職者から性的虐待を受けた犠牲者への賠償金の支払いで破産する教会も出てきた。教会一般のイメージは聖職者の性犯罪の多発と教会側の隠ぺい体質が明らかになって地に落ちてしまった。

そのような中、フランシスコ教皇は教会の刷新には積極的な発言を繰り返してきた。バチカンで昨年10月、教会の刷新、改革について話し合う世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会が開催されたが、教皇はシノドス開会前のサン・ピエトロ広場でのミサの中で、「私たちの集まりは議会ではなく、共同体だ。シノドスは多様性の中で調和を生み出すことが目的だ」と語り、シノドスを通じて教会の精神的刷新を期待していた。

「天国は近づいた」と荒野で叫んだ洗礼ヨハネのように、フランシスコ教皇は自身の命が絶えるまで努力した。聖週間の期間に亡くなった聖ヨハネ・パウロ1世と同じように、復活祭後の聖月曜日に88歳で亡くなった。

教皇の死後、20日以内に次期教皇を選出するコンクラーベが招集される。そこで3分の2の支持を得た枢機卿が次期教皇に選出される。選挙権を有する80歳未満の枢機卿(135人)のうち、3分の2以上はフランシスコ教皇によって任命された枢機卿(108人)だ。フランシスコ教皇は実行できなっかった教会刷新という任務を自身が選んだ枢機卿に託することになる。フランシスコ教皇の教会路線は継続されるわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年4月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。