北欧スウェ―デンに住む一人の修道女が語った言葉が心に響いた。彼女は「私の日々はここで神の前に祈りを捧げることです。少しでも世界が良くなり、平和が実現できますように祈ります。これが私の仕事です」と述べていた。下界との接触は最小限に止め、ほとんどの時間を祈りや瞑想に費やすというのだ。

中国のキリスト信者たち(バチカン・ニュースのHPから)
「祈り」には凄いエネルギーが必要だ。24時間のうち多くの時間を祈る修道女にはただ敬服せざるを得ない。同時に、「祈り」が世界を変えるという強い信念にはやはり圧倒される。
このコラム欄で何度か「祈り」をテーマにしてきた。なぜ人は祈るのかについて理解したかったからだ。同時に、「祈り」の影響についてだ。最近、「シェルドレイクの仮説」について聞く機会があった。それによって、「祈り」が祈る本人だけではなく、他者にも大きな影響を与えるメカニズムが少し理解できた感じがした。
Wikipediaで調べると、イギリスの元ケンブリッジ大学フェロー、生物学者、超心理学者のルパート・シェルドレイクが唱えた仮説で、離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響し、形態のみならず、行動パターンも共鳴する。これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こるというのだ。簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説だ。
「スウェ―デンの修道女の祈り」はその修道院という場を超え、他の場所、人に共鳴現象を通じて伝達され、祈りの内容がいつしか成就される、という解釈が成り立つのだ。「祈り」は無益な行為ではなく、時空を超えて他の場に伝達させる業ということになる。要するに、スウェ―デンにいても東京に住む人のために祈りを伝達でき、その願いを実現できる道を開く、ということになる。「場の共鳴現象」で祈りのパワーを実証できるのではないか。
聖書の中で、祈る場合、隠れて祈るべきだとイエス自身が助言している。新約聖書の「マタイによる福音書」の6章5節によると、「祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と諭している。喧騒な場から離れ、静かな場で祈りに集中せよ、というわけだ。
もちろん、「祈り」はキリスト教徒だけの専売特許ではない。全ての人が祈る。キリスト信者やユダヤ教徒、イスラム教徒だけではない。仏教徒も他の宗教の信者たちも祈る。その意味で人は平等だ。困難な時ほど、その「祈り」の真剣度は深まる。祈りが自分の為だけではなく、他者の為に祈る時、最も力を発揮できるというのだ。
祈りは私的なものから、公的なものまである。声を出して祈る場合もあるが、多くの場合、心の中で祈る。欧州人は米国人よりも公の場で祈ることに臆病だが、やはり祈る。
キリスト教会では、祈りで始め、祈りで終わるといわれる。自身の弱さを吐露する祈りは非常に私的だが、それだけにその祈る瞬間は真剣だ。祈るのに、どの宗派に所属しているかは問題ではない。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813~55年)は祈りについて、「祈りは神を変えず、祈る者を変える」と述べている。
当方は2020年の新型コロナウイルスのパンデミックの時、「地域、民族、国境を越えて同じ試練に直面するという機会は歴史上でも多くはない、21世紀の世界で人類は、初めて、共通の、緊急の試練に直面していることにむしろ感謝しなければならない。この機会を逃してはならない」と書き、「祈り」という人類の武器を使用すべきだと提案した。
激動期に入った。大量破壊兵器が見直され、核戦力の強化に乗り出す国が出てきている。悪が徒党を組み暴れ出そうとしている。世界の義人たちは「祈り」を結集させるべきだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年6月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。