昨秋に亡くなった際にも書いたけど、ポスト冷戦期に出た西尾幹二さんの『全体主義の呪い』(1993年)という本が好きである。西尾先生本人を好きかというと、色々あって微妙なんだけど、まぁそれはどうでもいい。
ベルリンの壁が崩れ、「自由」を手にしたばかりの東欧諸国の旅行記だが、当の西尾さんがニーチェの研究者として、そもそも自由をいいものだと思ってないのがポイントである。で、そういう「空気読めてない話」を現地の知識人にぶつけて、通じない様子が誠実に綴られる。
たとえばチェコのプラハで、西尾さんが行った講演(1992年4月)から、ちょっと引いてみよう。
選択の自由が余りに多いことは人間を不決断にします。かつて旧ソ連では永い間ソルジェニーツィンの小説は禁止されていました。ということは彼の体制批判は当時のソ連社会には爆弾のように危険で、社会的批評としてはこのうえなく有効であったことを意味します。いいかえれば、彼の言葉はその限りでは自由だったのです。
しかし情報化社会では、政府批判の言葉は何ら制約を受けずに、誰でもが口に出来、新聞やテレビや週刊誌は余りに好き勝手なことを言い過ぎて、何の効果も上げ得ません。言葉は無力なのです。意見や思想は数が多過ぎて、凡庸が支配し、深い所で役に立ちません。つまり〈言論の自由〉が余りにも広がり過ぎて、〈言論の不自由〉に陥っています。
改題『壁の向うの狂気』354-5頁
(改行と強調を付与)
それを〈言論の自由〉を手に入れたばかりの人に言うか? という話だけど、でも当たってたわけですよ。むしろ東西を問わず、20年ほど後に来るSNS社会を、正確に予言していたともいえる。
SNSでは誰でも〈自由〉に発言でき、まれに無名の発信者もマスメディア並みのインフルエンスを誇る。しかしそれは凡庸さゆえにバズってるだけなので、世の中を変える力はない。むしろ利用者が互いに監視しあい、お前の意見は「凡庸さに沿ってないぞ!」と検閲しあう、キャンセルカルチャーなる〈言論の不自由〉が横行する……
で、この自由があまりに多すぎると、かえって無価値になる現象には、ふさわしい名前がある。「インフレ」だ。世に出回る紙幣が多すぎると、1枚ごとの価値が下がって、買えるものが減る。
自民党の「1人に2万円給付」の公約が不評で、野党は減税でもっとカネを配れと怒っているが、ではケチらずに「1人に2億円給付」したらどうなるか?(財源は国債がある。うおおおおMMT!) WWI後のドイツのような天文学的インフレが起き、「1億円札」を刷ってもいまの1000円札くらいの価値しかなくなることは、ふつうわかる。
旧共産圏がこぞって自由主義のもとに殺到した「冷戦の終焉」は、なぜそんな「自由のインフレ」に終わってしまったのだろう。最初から自由が嫌いな西尾さんと違って、ぼくはどこかで自由の中身がすり替わったのだと思う。
自由とはなにかについては、「意見の複数性に基づくFreedomは、単一の解放のビジョンへと向かうLibertyとは違う」と主張したアーレントをはじめ、色んな議論がある。最近は、テック企業が謳うリバタリアニズムは本当にリベラルか? みたく問われることが多い。
ぼくに言わせると、いま流通している「自由」の中身はFreedomでも、Libertyでもなく、ただのConvenienceだ。近所にコンビニさえあれば、他の人と一切話さず、あたかも自分ひとりだけが人間で周りはみんな自販機かAIだと思い込んでも、「不自由なく」暮らせますよね、な自由。
冷戦下に西側で「共産主義と戦う」と言うとき、掲げられたのは(Freedom of Speechに基づく)政治的な自由だった。だけど実は、彼らはその立派なビジョンの力で、東側に勝ったのではない。
むしろ効いたのは、消費社会でお買いものする自由だった。それについては『夢の世界とカタストロフィ』という面白い冷戦史の本を基に、むかし書いたことがある。
社会主義は共同作業的な「労働」自体を快楽にせよと命じたが、資本主義は家庭という場のプライバシーを確保し、「消費」を通じて大量生産の効率性と個々人の夢とを結びつけた分、より巧妙だったのだ。
フルシチョフの頃からすでに、共産主義の理想は「生活水準の向上」としてプロパガンダされていたため、人々が冷戦末期に西側の豊かな消費社会を目にしたとき、そちらへの脱走を転向と感じる理由はなかったのである。
初出は『週刊東洋経済』2013.10.5号
昨年末にYouTubeの「ことのは」でご一緒した細谷雄一先生が、E.H.カーが第一次大戦後の欧州を『危機の二十年』と呼ぶのになぞらえて、冷戦後の世界も実は「危機の三十年」ではなかったかと提言し、話題になっている。
カーも細谷さんも、人類が「危機」に気づくのに遅れた理由を、ユートピア思想の流行に求める。一理ある指摘だけど、「理想主義か現実主義か?」を議論する際は、気をつけるべき点がある。
たとえば自由とは、理想の最たるものだけど、
① 美しすぎる理想が現実とかけ離れていたので、ダメになった。
② 最初は美しかった理想が、途中で別のものにすり替わり、みんなが失望して支持をやめた。
③ その理想はそもそも初めから美しくなかった。
の3つは、それぞれ別の現象だ。最後にダメになる点だけは同じでも、区別して論じないと、得られる教訓はだいぶ違ってくる。
難しいのは、どれかが正解で他が誤答みたいに単純な話ではなく、①~③のどれもが現実の一断面を捉えていることだ。論じる識者も同じで、雑に言うと細谷さんは①、ぼくは②、西尾さんは③の見方に立つことが多い気がするけど、誰もが異なる視点も持っている。人間は複雑だからだ。
4月もお世話になったBSフジの「プライムニュース」が、7/7に議論する場を設けてくれて、ダイジェストがYouTubeに上がっている。
いま世界で生じる理想の衰退は、自由のインフレが亢進しすぎて限界を超え、こんな「役立たずの自由なら要らねぇ!」としてデフレに転じる兆しだとも言える。口にはユートピアを唱えても、「理想の恩恵は西側の私へ、厳しい現実はそれ以外のあなたへ」とするダブスタへの憤りが、いっそうその流れを加速してもいる。
そうした時代こそ、ConvenienceよりFreedomが必要だ。番組での〈自由〉な議論が、そのメッセージとして届くならとても嬉しい。
参考記事:
(ヘッダーは1990年、開店に沸くモスクワのマクドナルド・ソ連1号店。ウクライナ戦争後の撤退を扱うBBCの記事より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年7月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。