イリエスク氏の死と民主革命直後の証言:冷戦時代の終焉期の混乱

時代は冷戦時代の終焉を迎えていた。ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領とその妻エレナの公開処刑の場面は世界を震撼させた。1965年から約24年間君臨してきたチャウシェスク大統領夫妻が1989年12月末、銃殺された。その直後、政権を掌握したイオン・イリエスク氏が革命後の初代大統領に就任した。そのイリエスク氏が5日、ルーマニアの首都ブカレストの病院で肺癌で死去した。95歳だった。

当方のインタビューに応じるロマン首相(当時)、1990年7月24日、ブカレストの首相執務室で

イリエスク死去のニュースを聞いて、ルーマニアの革命直後の政情を思い出した。当方は1990年7月24日、ブカレストでぺトレ・ロマン首相とブカレストの首相執務室で単独会見した。同首相はイリエスク大統領の最側近だ。会見の当日、革命から半年以上経過していたが、首相執務室前には機関銃を構えた兵士が立ち、ブカレスト官邸前には戦車が待機していた。それを見ながら部屋に入ると、ロマン首相はラフなスタイルで迎えてくれた。会見はスムーズだったが、人権問題に及ぶと急にその口調は厳しくなった。

ルーマニアでは当時、チェウシェスク大統領を処刑し、即政権を掌握したイリエスク大統領を含む与党「救国戦線」に対して国民の間に批判の声が強まっていた。

チャウシェスク大統領時代の共産党のノーメンクラトゥ―ラ(特権階級)に属していたが、1980年代にチャウシェスクによって党要職から追放された元政治家イリエスク氏を見る国民の目は厳しかった。

ロマン首相は「イリエスク大統領に対する批判の声は全国的というより、国民の一部に過ぎない。大統領は昨年末の民主革命に参加、独裁政治を崩壊させた人物であり、わが国の新生に責任持っている政治家だ。大統領が元共産党員だったというだけで批判するのは不当なことだ。ルーマニアは民主化に必要な諸政策を実施している。それらの政策は現在進行中であり、成果が出ている。問題は山積しているが、過去の独裁政権の残滓があるからだ。与党『救国戦線』は英国労働党や西独社会民主党と同様に中道左派政党を目指している」と説明した。

同国野党は当時、与党「救国戦線」がルーマニアの民主革命をダメにしたとして、第2の民主革命が必要だと主張していたが、ロマン首相は「断言するが、ルーマニアの民主化は同革命の成果である。第2の革命云々はナンセンスだ」と強く反論した。

ブカレスト市内で反イリエスク大統領のデモ集会が開催された時、新政権は治安部隊を出動させ、多数の市民が逮捕され、負傷者も出た。ロマン首相は日本政府に対しても、「経済支援と人権問題をリンクさせることは間違いだ。どのような民主化の方法をとるかはルーマニア政府が決定すべき問題だ」と強調した。

同国検察庁は革命の血みどろの時代に多数の死者を出したとして、「革命裁判」でイリエスク氏を起訴し、人道に対する罪を含む罪で起訴する予定だったが、結局実施されなかった。なお、ブカレストからの情報によると、イリエスク氏の葬儀は国葬として挙行される予定という。

ロマン首相は民主革命直後から2年間余り首相を務めた後、上院議長、外相などを歴任している。現在79歳。会見から35年の年月が過ぎた。同国は2004年に北大西洋条約機構(NATO)に、そして2007年に欧州連合(EU)にそれぞれ加盟した。ルーマニアの政情は今年5月に実施された大統領選に見られるように、極右政党「ルーマニア統一同盟」(AUR)が躍進するなど、ここにきて右傾化してきている。

1989年、救国戦線による政権樹立を発表するイリエスク氏 Wikipediaより


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年8月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。