
もうすぐ80年目の「8.15」だが、悼む日を静かに迎えるには、あまりに政治の情勢が不穏だ。歴史を語るコメントを石破茂氏が出すのかも、彼がいつまで首相なのかもわからない。

確実なのはこの日、今後の政局含みで「これ見よがし」に靖国神社に参拝する政治家が続出することだ。次の自民党総裁がありえる人が、連立入りも想定される野党の人と、境内で立ち話して……みたいな「スクープ」もあるかもしれない。
これまた「はい的中!」としか言いようのない事態だけど、さすがに今回は(笑)をつける気分が起きず、ひたすら憂鬱である。

戦後80年の夏が近い。意外にもそれは、久しぶりに歴史が政治と噛みあって、大きな変化を起こす転機になるかもしれない。
(中 略)
次なる政権の選択と、戦後80年を迎える姿勢の当否が絡みあい、大きなハレーションを起こす可能性はゼロではない。
初出『表現者クライテリオン』5月号、122頁
(算用数字に改め、強調を付与)
しかし、80年も経って忘れかけてる人もいるのに、いまだに「戦死者ってどこで弔えばいいんですか」が決まってない国というのも、すごい話だ。どうして、こんなことになったのか。
今月刊の『文藝春秋』9月号は、もちろん戦後80年特集。先崎彰容さん・辻田真佐憲さん・浜崎洋介さんと、3部構成の大座談会「令和の天皇論」に、ぼくも登壇している。
第1部の「昭和天皇と戦争」は、上記の動画で全編が見れる。第2部で東京裁判を論じ、第3部が「日本と天皇のこれから」となる。
大切なことだから、第2部のうち靖国問題についてぼくが提起した箇所を、抜き書いておく。

国際政治の観点では、東京裁判で最も重要なのは、その物語を裁判に加わっていない中華人民共和国も受け入れたことです。
当時、連合国に入っていたのは中華民国(現・台湾)の方ですから。1972年の日中国交正常化の際、中国としては「東京裁判での〝手打ち〟は、蔣介石が勝手にやったことだ」と突っぱねる選択肢もあったけど、国際社会で機能しているフィクションだからと乗ることにした。
つまり彼らの視点では、ここで大きな妥協をしている。A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝を許容しないのも、あの時ずいぶん譲って「同じ物語」に乗ったのに、後から手のひらを返すのはダメだよと。
『文藝春秋』9月号、292頁
これを見落としてる人が多いんですよ。特に、抗議が来るたび「中国ガー!」と怒る人ね。まぁ、ぼくも教員時代に小菅信子先生の『戦後和解』をテキストにするまでは、気づいてなかったから、偉そうにできないけど。

とはいえ、「ずいぶん譲った」のが相手の側だけでないことが、この問題の最大の難所だ。戦後日本の目線で見た姿を、ざっくり言えばこうなる。
冷戦下で自民党は、1969年から5年連続で「靖国神社国家護持法案」を提出し、当時の世論の反発で毎回廃案になりました。
つまり、①靖国を「国の神社」に戻す案をまず譲り、②代わりに昭和天皇の参拝を求めたけど、いわゆる富田メモが示すとおり、本人に行く気がない。さらなる妥協案が、③中曽根康弘首相による「公式参拝」(1985年)でしたが、これも1回きり。
3度も譲ってきたんだから、公式でない「ふつうの参拝」くらい、首相がやってもいいでしょうというのが、今の状況ですよね。
日中の双方に「ここまで多くをそちらに譲ってきたのだから、せめてこれだけは……」という気持ちがある。どちらの心情もわかるがゆえに、危険な状況だと思います。
同頁(段落を改変)
最後の靖国神社法案の廃案は、1974年の6月である。翌月の参議院選挙で自民党は苦戦し、追加公認を入れても野党と4議席差の「保革伯仲」になる。首相は田中角栄だったが、インフレによる生活苦で衆院選に続く2連敗となり、指導力を失う姿は、いまの石破内閣にも似ている。

昭和天皇の「最後の靖国参拝」は、翌年の1975年だった。しかし78年10月、靖国神社がA級戦犯を合祀した結果、行く気をなくす。ちなみに75年は、フォード大統領の招きで、天皇・皇后が初めて訪米した年でもある。
米国が主導した裁判で「悪いのはこの人たち」という筋書きを作り、72年の国交回復で中国も乗った後、最も忠実にそのシナリオを演じた「国際社会のエージェント」は、昭和天皇だったのだ。
たとえば江藤淳がそう気づいていたら、憤死したかもしれない。幸いに当時は伏せられていたので(富田メモの発見は2006年)、どうにか生きられた。が、平成に入り『昭和天皇独白録』が公刊されて、GHQ時代からの天皇の「内通」を知り、人生を否定されたと感じて自死に向かう。

……それくらいふり返った上で、政治家が靖国に行ってくれるならまぁいいんだけど(いやよくはないか)、もちろんそんな人は誰もいない。「いま」反対する国や勢力があるから、あえてガツンと参拝すれば逆に人気出るんじゃね? くらいの感じで、現在しか見ていない。
という話は、2011年に出した『中国化する日本』にも、21年の『平成史』にも、はっきり書いた。が、安倍談話で「歴史問題はもう解決」してるから、歴史と関係なく靖国に行くのかなっぽいノリの政治家さんまで出てくると、ネタバレされた作者みたいな気持ちである。

多党化が進む政局にせよ、収拾しない靖国問題にせよ、ぼくたちは1970年代の夏休みに「解き損ねた宿題」を、半世紀後のいまもやっている。専門家のはずの歴史学者は、SNSでだけ威勢がよく、なにもしない(苦笑)。
毎年の8月に歴史をそう感じとれる人を、細々とでも文章を通じて維持するのが、たぶんぼくにとっての「最後の御奉公」だろう。『文藝春秋』を手元に、できれば終戦記念日は、静かに過ごす人が多ければいいなと思う。
参考記事:



(ヘッダーは毎日新聞より、1952年に靖国神社を参拝する昭和天皇)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年8月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






