先日、「『コロナ自粛警察』と『ウクライナ応援団』」という題名の記事を書いた。社会現象の面から見て、両者に類似点がある、という趣旨であった。

私にとって残念なのは、最も妥当と思われる政策的立場が、「コロナ自粛警察」や「ウクライナ応援団」によってかき消されてしまったことだ。
端的に言えば、「コロナ自粛警察」は、当初の日本の「三密の回避」を中心にした穏健なアプローチを駆逐しようとした。結果として、多大な混乱をもたらした。

8割の行動制限の必要性を訴える西浦博氏 「新型コロナクラスター対策専門家」Xより 2020年4月
「ウクライナ応援団」は、従来の欧州安全保障の基本である「勢力の均衡」を中心にした穏健なアプローチを駆逐しようとした。結果として、多大な混乱をもたらした。
もう少し説明していこう。
「コロナ自粛警察」は、経済活動を維持することを最優先してコロナ対策を軽視する人々を敵視する余り、過剰な自粛を社会運動を通じて広めることが自己目的化させてしまった。結果として、「西浦モデル」を神格化し、現実を冷静に見ることを拒絶する態度を生んだ。
これによって最大の犠牲になったのは、穏健で現実的なコロナ対策だった。私自身は、東北大学の押谷仁教授の功績を賞賛し、同教授の世界的に見て意義が大きかった発見に基づいて作られた「三密の回避」を中心にした当初の「日本モデル」の対策を妥当なものと考えていた。押谷教授の卓越した学術的業績の裏付けを持つ社会政策は、当時の日本が世界に誇るものだった。

これに挑戦したのが、英国留学中に学んだ数理モデルにこだわる西浦教授であった。実は、日本のコロナ対策は、穏健な押谷教授のアプローチに対して、過激な西浦教授のアプローチが併存している状態があった。当初は押谷教授の経験主義的で穏健なアプローチが主流だった。これに対して西浦教授は、自説に基づく過激な主張を、メディアを使って拡散させる手法を好み、半ばクーデターに近い行動もとった。

メディアは過激で劇画性が高い「西浦モデル」を取り上げることを、はっきり言えば商業主義の動機づけから、好んだ。結果として、メディアでは「西浦モデル」が「専門家の代表」と扱われるようになり、「西浦モデル」に合致しない意見は、「専門家の意見に反した暴論」と扱われるようになった。恐らくは「専門家」の全てが「西浦モデル」を支持したわけではなかったはずだが、社会的理解が不可欠なコロナ対策において、「西浦モデル」がメディアを制圧したのは大きかった。「三密の回避」は時代遅れとされるようになり、政策的にも、世論同行においても、混乱が広がった。
そもそもの「三密の回避」では、「密閉・密集・密接」の三つの「密」を避ければいいので、過激なレベルでの人間の接触の徹底取り締まりは不要になる。その政策体系は、「クラスター発生の防止を最優先する」という明確な柱を持つ美しいものだった。
たとえば満員電車では「密集」を避けられない。しかし全員が無言で、しかもマスク着用率も高ければ、「密接」が防げる。さらには徹底した空気循環を政策的措置で導入すれば、「密閉」を防げる。これらの措置によって集団感染「クラスター」発生確率を有意に下げることができれば、死亡者の増加につながる大量新規陽性者の発生を防げる。もともと満員電車には通勤・通学者が多いので、高齢者比率が低い、という重要な背景もある。押谷教授は、クラスター発生のメカニズムを学術的に解明しただけでなく、クラスターこそが感染爆発の元凶であることを説明した。たとえば電車内で吊革に触ったら、消毒をしないと、接触感染リスクが高まる。しかし接触感染ではクラスターは生まれず、大量感染も発生しない。押谷教授の業績は、クラスター対策に政策資源を集中させることの効率性も示唆した点で、社会政策上の意味も大きかった。
ところが徹底した「ゼロ・リスク」を求める「コロナ自粛警察」系の方々は、押谷教授のアプローチも妥協的なものとして拒絶の対象とした。そして当初は成功しているかのように見えた日本のコロナ対策が、結局は迷走していくことになった。
「ウクライナ応援団」の方々の言説を見てみよう。
「ウクライナ応援団」の方々の信念によれば、戦争はプーチン大統領が邪悪であるがゆえに発生する。したがってウクライナが敗北すれば、邪悪なプーチン大統領が欧州全域も侵略して支配し、さらには東アジアまで侵略して支配することは、必至である。このリスクを解消するには、「ウクライナは勝たなければならない」「この戦争は終わらないのでどこまでも強くウクライナを応援しなければならない」ということになる。
「ゼロ・リスク」を求めて、プーチン大統領を除去するための永久戦争に向けた総力戦を行うことを主張するのでなければ、「虚栄と独善」にやられて「闇落ち」した「親露派」の「老害」だ。

商業主義的な事情もあり、この「ウクライナ応援団」の方々の主張が、メディアを通じて、世論の動向を牛耳る「専門家の考え」になっている。
しかし伝統的な欧州の安全保障は、「勢力の均衡」によって成立するのが、基本だ。ウクライナが自衛権を行使してロシアの侵略に対抗するのも、「均衡の回復」を目指すものであるべきなのが、伝統的な欧州の安全保障の見取り図である。
英文書だけでなく、その他の日本語媒体でも、私が何度か取り上げてきたことだが、親露派扱いされたヘンリー・キッシンジャー氏などが語っていたのも、この意味での「均衡(balance)」であった。停戦に焦点をあてた研究で言えば、ザートマンの「成熟(ripeness)」が重要だ。

しかし「ウクライナは勝たなければならない」主義を掲げる「ウクライナ応援団」の方々に言わせれば、「均衡」や「成熟」を語ること自体が、許されないことである。そのような議論は、「虚栄と独善」にやられて「闇落ち」した「親露派」の「老害」として、社会的排斥の対象にしなければならない。
こうした風潮が蔓延する中では、健全な学術研究にもとづいた政策的な議論ができないだけではない。全ての問題が、「この人物は、道徳的に正しい人物か、あるいは「『虚栄と独善』にやられて『闇落ち』した『親露派』の『老害』か」、という問いだけに還元されてしまうため、社会の発展そのものが停滞してしまう。
残念ながら、今の日本はそういう状況にある。話題を変えても、なお社会現象としては同じような構図が繰り返されるのは、相当に構造的な事情が、日本社会に存在しているということだろう。
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