
metamorworks/iStock
京大「未来シナリオ」関連の社会的共通資本対話イベント
社会的共通資本に関する対話イベント
2023年に「資本主義の終焉のその先」を社会学の観点からまとめた『社会資本主義』(ミネルヴァ書房)は、2025年7月に京都大学beyond2050社会的共通資本研究部門が公表した「未来シナリオ」に重なるところが多く、9月7日に「未来シナリオとしての『社会資本主義』の提唱」をアゴラに発表した。

オンラインで参加
その準備段階で9月12日に京大主催「社会的共通資本に関する対話イベント」を知り、当日オンラインで参加した。
都合で前半の講演だけを拝聴したが、「気候変動、人口減少、経済格差の拡大という危機」を掲げたその「対話イベント」は私の「社会資本主義」にも大変有益であった。なぜなら、現代社会の共有財産(社会的共通資本)を軸とした議論が行われ、共有財産を「いかに守り、育み、次世代へとつなげていくか」が問われたからである。
イベントのキャッチコピーも「私たちの暮らしを支える社会の共有財産(社会的共通資本)を知り、未来を考えるきっかけにしませんか」であり、以下のようなプログラムでそれぞれの論者が自らの立場を明らかにしつつ真摯に講演された。
講演のプログラム
15:00~ 京都大学社会的共通資本研究部門の考える未来
[近藤 尚己(教授・部門長/社会疫学・公衆衛生)]15:15~ 社会的共通資本のこれまでとこれから
[占部 まり(連携研究員、宇沢国際学館代表取締役/社会的共通資本・臨床医学)]
[渡邉 文隆(特定准教授/経営科学・マーケティング)]15:40~ 社会的共通資本に関する研究の紹介(若手研究者による発表)
・自然環境/自然資本[河岡 辰弥(非常勤研究員/生命科学・細胞生物学)]
・制度資本 [喜屋武 享(特任准教授/ヘルスプロモーション)]
・インフラ資本 [高木 大資(連携研究員・特定准教授/社会心理学)]
ここでは私の関心に引き付けて、特に近藤教授、占部連携研究員、渡邊准教授の講演内容を手掛かりに、現段階の社会的共通資本研究が「その先」に進むための課題と展望をまとめてみたい。
すなわち予測が「その先の社会」をどう描くかを中心とするが、描かれた「その先の社会」が再帰的に及ぼす現在の予測としての『未来シナリオ』への影響にもまた配慮しておきたい。そうすれば、「倫理的な社会目標を達成できる最も有望な政治的方法を発見する」(ニーバー、1932=2024:30)にもつながってくるからである。
社会疫学・公衆衛生学の観点
公衆衛生学の立場から近藤氏は、厚生労働省「健康日本21(第3次)」を紹介しながら、「健康寿命の延伸・健康格差の縮小」のためには、「個人の行動変容」と「社会環境の質の向上」が重要であることを、いくつかの資料を提示しながら強調された。その「社会環境」の核となるのが「社会的共通資本」であった。
健康は多重レベル」の指標で測定
近藤氏は図1を使い、「健康は多重レベル」の指標で測定することを強調され、WHOのいうように健康を身体面(physical)、精神面(mental)、社会的側面(social)に大別し、特に社会的側面に含まれる環境による健康寿命の相違に焦点をおいてまとめられた。

図1 健康日本21(第三次)の概念図
(出典)厚生労働省「健康日本21(第三次)」の推進のための説明資料
(注)写真は「Beyond 2050 社会的共通資本 対話イベント」における近藤尚己氏の講演資料
社会的共通資本を中心とする
とりわけ「健康日本21(第三次)」では明示的には使用されていない用語である社会的共通資本を「社会環境の質」の基軸に据えて、「健康日本21(第三次)」で使われた「信頼できる人とのつながり」である社会関係資本(ソーシャルキャピタル)のもつ重要性が強調された。
さらに、つながりをもつのは「自分らしく生きること」でもあるから、その根本に存在する文化資本への目配りも重視された。
そして、「誰も取り残さない社会を作る」すなわち「健康日本21(第三次)」でいわれたInclusionとより実効性を持つ取組の推進(Implement)には、最終的には文化資本まで包括して、健康も含む文化が格差を取り除く仕組みとしても社会的共通資本に期待したいとされた。
近藤氏が使う社会的共通資本概念は、社会関係資本と文化資本までも包摂しているところに特徴があった。
宇沢弘文の転機
宇沢の長女で、宇沢国際学館代表取締役の占部氏は、父親の宇沢弘文が第二次世界大戦、ベトナム戦争、アメリカから日本への帰国を三大転機として、都市的豊かさを問い直すことで社会的共通資本という考えを深めていった経緯をのべられた。
いかに高い倫理的水準を持った社会を作るのかが宇沢独自の出発点にあり、そこに社会的共通資本概念が置かれている。それは倫理的水準と同時に抽象度が高いとされ、後続者には「抽象度が高い情報を共有する」ことの困難性が残された。
三種類の定義の次元が異なる
この指摘に関連づけておきたいことは、宇沢の社会的共通資本定義で厄介なのは、都市的インフラとしての「量」と「質」としての道路、港湾、公園、鉄道、上下水道、電力、ガス、通信、学校、病院などの第一の「社会的共通資本」と、晩年にはっきりと追加された第三の「社会的共通資本」としての「制度資本」である行政、教育、医療、司法などの「質」を同居させたままで終了したところにある。
つまりは自然資本を加えた次元がすべて異なる三種類を一括して「社会的共通資本」と呼び、この三者間の関連についての考察が十分に展開されないままに現在に至っている。
農村と都市も社会的共通資本
そのうえ、亡くなる4年前の2010年に創刊したSocial Common Capitalの第1巻『社会的共通資本としての医療』で、新たに「農村や都市もまた、社会的共通資本」(宇沢、2010:22)と規定されたことで次元がさらに複合したために、ますます「抽象度が高い情報」になり、それ以降は共通の合意への難しさが倍増した。
本来の狭い意味ならば、社会的共通資本は都市のインフラとしての使い方が先行していたのが、それを包摂する「農村や都市」までも社会的共通資本とされるに至って、「抽象度」は飛躍的に高くなり、人によって力点の置き方を変えざるを得なくなったる。
これらを図示してみると図2が得られる。

図2 宇沢弘文「社会的共通資本」の集合構造
(出典)金子作成
overheadは社会の骨格を表現する
宇沢が社会的共通資本の英訳として‘social overhead capital’にまだこだわっていた2002年段階での発言では、「‘overhead’は・・・・・・社会の骨格をなすような『施設』であったり、『物』であったり、『資本』であったり、『制度』であったりする」(宇沢、2002:36)であったのに、この段階でさえも四種類(実際は三種類)の「骨格」を束ねた概念が社会的共通資本というのだから、抽象度は上がっていた。
さらに「農村も都市」もまたここに加えられたことになる。これではメッセージを受け取った側からすれば、当初の三種類の概念でさえも次元の相違があることで苦労していた時に、それらがもっと包括的な「農村と都市」と同列に定義されては、社会的共通資本の共通了解に到達するのは後回しにするしかない。
社会的共通資本を分離研究して、その後に融合させる
これら積み上げられた概念の頂点に「社会的共通資本」があるのならば、受け手側が当初の三種類の社会的共通資本を正しく「次元が異なる情報」とみて、区別したうえで出発することであろう。その後に「農村や都市も社会的共通資本」を位置づけるしかない。
すなわち今のままでは社会的共通資本について混然一体の「量と質」の研究は困難であるとして、原点に帰り「量」と「質」に分けて、それぞれに研究を開始する。そしてその後に研究グループ全体で三通りの概念を融合させ、最終的に「農村や都市」に連結するしかない。その遠まわりの方針が社会的共通資本概念の現代的有効性を高める近道であると考える。
どの社会的共通資本を最初に取り上げるか
近藤氏の場合は、社会関係資本や文化資本の上位概念として社会的共通資本を使うことから距離を置き、これの三者は対等の関係にある概念としての見直しがその第一歩であろう。
占部氏においてはインフラ施設、自然資本、制度資本間の関連付けを優先的に行うことから社会的共通資本の理解が深まると思われる。
経済合理性への疑問から
それらに対して、経営科学・マーケティングが専門の渡邊氏は、社会的共通資本では選好を変えるのは経済合理性だけかと問いかけて、手段的合理性(経済合理性)と実存的合理性(やむにやまれぬ)の両者に二分された。
講演で使われた両者の事例を拝聴した限り、この両者はパーソンズの「道具的指向」(instrumental orientation)と「表出的指向」(expressive orientation)で代替できると思われる(パーソンズ、1951=1974:55)。この両概念を受けいれた社会学では、長年にわたり人間行為はinstrumental とexpressiveに大別できるという了解のもとで研究されてきた。その伝統がここにも活用できるはずである。
資本概念の乱立を整序したい
渡邊氏の講演で使用された資本概念(図3)は9種類に達するために、相互に絡み合っており、どのようなつながりをもつのかが分かりにくい。また、宇沢が分類した三種類の社会的共通資本それぞれはストックであり、それゆえに独占的な豊かさをフローとして生み出すとされた。

図3 講演で使用された資本概念
(出典)渡邊文隆氏「講演」で使用された資本図式(2025年9月12日)
しかし9種類の資本はストックとフローの両面での関連が不透明である。なお、図3の中ほどの「社会資本」は、宇沢の定義を活かせば「社会的共通資本」になるのではなかろうか。
それら9種類の諸資本のうち、中心を占める位置にある「社会資本」(正しくは社会的共通資本)を支えていくのはどのような合理性なのかは、この段階では見当がつかない。
しかもたとえばガルブレイスの「ゆたかな社会」とは別の宇沢独自の「ゆたかさ」「ゆたかな社会」概念が講演では付加されたために、理解にいっそう手間取るようになった。
ガルブレイスの「ゆたかな社会」
周知のように、『ゆたかな社会』(第4版)でガルブレイスは、「社会的バランス」として公共財と民間財の供給バランスを重視した(ガルブレイス、1984=1990:19)。また、階層的には低いと見られる「貧しい者」への予算支出が農業、国防、公共事業、特定産業への助成になるのに対して、「ゆたかな人々」向きには環境面での支出が該当し、公共財と民間財の供給にも階層的相違があることを示唆した(同上:23)。
特に①ゆたかさの広がり、②生活安定度の向上、③ゆたかな人々が投票者の過半数になった(同上:27-28)に整理して、④ゆたかさは自己満足を合理化するとも論じて、「社会のゆたかさ」をまとめている(同上:37)。
ここにも階層ごとの「生活安定度の向上」は違うので、したがって「満足度」もまた階層による判断基準が異なるという社会学的命題を裏付けるような整理を行った。
宇沢の「ゆたかな社会」
これに対して、晩年の宇沢は「ゆたかな社会」を「各人が、その多様な夢とアスピレーションに相応しい職業につき、それぞれの私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、安らかで、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会」(宇沢、2010:21)と措定した。
これでは「ゆたかな社会」は各自の想像力に任せるしかなく、実質的な内容の精緻化は困難であろう。居住する都市における社会的共通資本の「量と質」の相違はもちろん、各人の所属階層ごとの希望と所得と家庭そして文化的水準も異なるために、「ゆたかな社会」イメージは共有できない。
フリーライダー問題
さらに合理的選好論の裏側には必ず利己的な選好が付随していて、いわゆるフリーライダー問題が内在する。これも社会的ジレンマ研究における「個人が得をすると、社会全体が損をする」という典型的な事例につながる。とくに社会的共通資本はほぼすべてが「公共財」と見なせるからである。
社会全体の持続性を支える「公共財」は誰にでも開かれていて、可能なかぎり無料かそれに近い使用料金で普通に使える。しかしその反面、費用を払わず、何の負担もせずに「ただ乗りする人」(free rider)は後を絶たない。利他を後回しにして利己優先になれば、ますますその傾向が強まる。そうすると、将来的に社会的共通資本を維持・管理することが難しくなり、それはまた現世代と次世代・次々世代間の不公平を生む原因にもなる。
共同消費手段と社会的労働手段
さらに渡邊「資本モデル」では、「金融資本」まで含まれている点が気になる。もちろんフローとしての「豊かさ」の公共財と都市インフラに象徴される社会的共通資本はほぼ同義なのだから、「金融資本」とともに「制度資本」が含まれても構わないが、そうすると宮本憲一の「社会資本」への言及も求められるであろう(宮本、1967)。
なぜなら、宇沢より数年早く『社会資本論』を出版した宮本は、「社会的共同消費手段」と「社会的一般労働手段」とに「社会資本」を区分していたからである(宮本、1967:11-45)。
たとえば民間企業が提供する鉄道は公共財だから、限りなく自由競争といいながら、その運賃も営業時間も運行本数も路線延長すらも国土交通省の許可や認可が必要になる。しかも、鉄道という「社会的共通資本」は乗客にとっては「共同消費手段」であるが、企業と従業員にとっては貨物・人員輸送の「労働手段」でもあり、この公共財では完全な市場原理は成立しない。
社会資本主義でも「社会的共通資本」は筆頭の「資本」
その意味で、「社会的労働手段と社会的消費手段は、ともに資本制社会の再生産のための一般的条件」(同上:45)なのであり、私の「社会資本主義」でも「社会的共通資本」は筆頭の「資本」概念に位置づけていて、「社会関係資本」、「人間文化資本」、「民間経済資本」とは区別しているが、図3のそれ以外の「資本」概念は省略している(図4)。

図4 「社会資本主義」モデル(金子)
社会資本主義モデル
私の「民間経済資本」は金融資本や健康資本などを包括するが、資本主義なのだから、これに社会的共通資本、社会関係資本、人間文化資本を加えて、それらの「適応能力上昇」(adaptive upgrading)こそが、「未来シナリオ」と同じく「厳密な論証と想像の交錯」(福島、2019:4)としての社会資本主義を推進させる社会経済エンジンとした(金子、2023:118)。
この説明は9月7日「未来シナリオとしての『社会資本主義』の提唱」で行ったので、ここでは割愛する。
宇沢逝去後に吉岡の批判
さて、これまで宇沢の業績を紹介してきたが、残された問題点を指摘しておこう。なぜなら、経済学全体に不滅の功績を遺した宇沢ではあるが、2014年の逝去後に疑問や批判が出されるようになったからである。
たとえば吉岡は、宇沢が地球温暖化の主因と見なした火力発電と生態系や環境を破壊するとして水力発電への厳しい批判をしている割には、「原子力発電について沈黙した」姿を浮き彫りにした(吉岡、2015:193)。
「公害・環境問題に対して被害者サイドに立って分析・評論してきた日本の学者のほぼ全てが、原子力発電に対して批判的」(同上:194)であり、宇沢もまたそれらの人々との「付かず離れず関係」をもっていたにもかかわらず、「意図的に沈黙した」(同上:194)と吉岡は指摘した。
反原発運動の成果で日本の発電量の90%以上が火力発電に依存して数年が経過した際に、それを地球温暖化論の立場から批判し、7%の水力発電を生態系破壊の理由で批判した宇沢が頼ったのは原発でもなく、ましてや「再生可能エネルギー」でもない。「宇沢さんは再生可能エネルギーについてもほとんど実質的な議論をしていない」(同上:195)からである。
室田の批判
もう一人の室田はさらに強い批判を加えた。「地球環境の将来を憂慮した先生は、テクノロジーとエコロジーの本格的な吟味に至らず、二酸化炭素に関する通説を無批判に受け入れて、地球温暖化脅威説を展開することに終始してしまった」(室田、2015:204)。同じく「リオ宣言以降の気候変動の議論が、科学的な根拠のあいまいな温暖化政治となってしまい、宇沢先生もこれに完全に巻き込まれてしまった」(同上:209)という批評もまた、宇沢の限界を指摘したものである。
社会的共通資本の恒常的現状維持(メンテナンス)と建設(コンストラクション)は膨大な二酸化炭素を必ず排出するから、この両者の論理的関連についての「混乱と無秩序」(同上:207)には、学術的に一定の判断と診断を加えることが政策的にも求められる。宇沢の想像力はそこまで届かなかったのだろうか。
社会的共通資本は、「定常状態」を実現するための制度か
また宇沢は、その社会的共通資本がミルの「定常状態」を実現するための制度と考えているようであり、くり返しミルの「定常状態」(Stationary State)に言及している(宇沢、2010:24-25)。
「東日本大震災」はもちろん「定常状態」ではなく、空前の「異常状態」である。そのために、宇沢は、復興に伴う工事による二酸化炭素の排出(宇沢は地球温暖化の主因と見た)と社会的共通資本の理論との関連については無視したのであろうか。
社会的共通資本は「調和のとれた経済発展」の必要条件
この事情は同じく晩年の段階でも変わってはいない。
宇沢は「私が考えている社会的共通資本はまず自然。そして道、鉄道、水、電気、ガス、通信などのインフラストラクチャー。重要なのは、それらがどういうルールで運営され、どう供給されているかも含めて考えることです。第三は、教育とか医療といった制度。・・・・・・これらがうまくつくられてはじめて、一つの国あるいは社会が、長期間にわたって調和のとれた経済発展を持続できる」(宇沢、2008:106-107)とみている。
しかし、自然と都市インフラと制度資本をあげるだけでは「経済発展」の十分条件を構成しないし、社会的共通資本論の新たな創造には進めないであろう。
自然条件の枯渇が資本化と結びつくのか
たとえば自然資本を膨らませて、ムーアのいうような「自然の条件を累進的に枯渇させることが、資本化へと結びつく」(ムーア、2015=2021:214)という指摘に正対して、社会的共通資本にどう連結させるかを理論的に試みることが、後続者の課題になるはずである。
道路の建設は「化石燃料の大量消費」
なぜなら、社会的共通資本の筆頭である道路建設自体が「化石燃料の大量消費」物であり、膨大な二酸化炭素の発生を自明とするからである。この逆説的な理論への配慮が、社会的共通資本と二酸化炭素による地球温暖化論を同時進行させた晩年の20年間の宇沢作品には乏しいように感じられる。
「農社」と農業農村の不思議な現実
しかも、宇沢の温暖化論の結論部で繰り返し示された農業農村は、農業が化石燃料とは無縁であるという架空認識が支配的であった。
電気がない時代の村落を彷彿させる「農社」を作り、「農村を再編成して、農社の組織を中心として、持続的農業が可能となるようにすることは、地球環境の問題を解決するために重要な役割をはたす」(宇沢、1995:206)という信条そのものの結論は、どの時代の何をイメージしたのであろうか。
同時に「農業部門では、化石燃料を使わないでも、生産活動をおこなうことができます」(同上:187)とは、あまりにも実情を無視していて非現実であろう。
非現実な「多様性」を都市は容認しない
なぜなら、ここにいわれるような非現実な「多様性」を都市は受け入れないからである。それはジェコブスの「多様性の自滅」(ジェコブス、1961=2010:270)の事例ではあっても、現実的な機能を果たさない。
いくら「多様性」が都市における諸問題の解決の手段として重視されるといっても、「秩序のシステム」(同上:404)がそこに内在しないから、宇沢のいうような農社・農業・農村の認識は現代の都市型社会での有効性が得られない。
予測活動とは変化への感度を高める行為
かりに「予測活動とは変化への感度を高める行為」(奥和田、2019:220)であれば、社会的共通資本を軸とした「未来シナリオ」でもその方向で努力したい。
以上が、社会学から見た「対話イベント」講演会の簡単な要約とコメントであり、いわば「未来シナリオ」に有効とされる社会的共通資本の「原風景」である。合わせて宇沢「社会的共通資本」への発展的な論点、および地球環境論をめぐる基本的問題点に触れてみた。「未来への信頼にたる予言」(ニーバー、1932=1960=2024:254)の積み上げがよりいっそう求められる。
【参照文献】
- Bourdieu,P.,1979,La distinction:critique social de judgement, Éditions de Minuit.(=2020 石井洋二郎訳『ディスタンクシオン1』[普及版] 藤原書店).
- Coleman,J.S.,1990,Foundation of Social Theory, Harvard University Press.(=2004 久慈利武監訳『社会理論の基礎』(上)青木書店; =2006 久慈利武監訳『社会理論の基礎』(下)青木書店)
- 福島真人,2019,「過去を想像する/未来を創造する」山口富子・福島真人編『予測がつくる社会』東京大学出版会:1-24.
- Galbraith, J.K.1973, Economics and the Public Purpose, Houghton Mifflin Co.(=1975 久我豊雄訳『経済学と公共目的』河出書房新社)
- Galbraith, J.K.1984,The Affluent Society, Fourth Edition Houghton Mifflin Co.(=1990 鈴木哲太郎訳『ゆたかな社会』岩波書店).
- Jacobs,J,1961,The Death and Life of Great American Cities, The Random House Publishing Group.(=2010 山形浩生訳『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会).
- 金子勇,2003,『都市の少子社会』東京大学出版会.
- 金子勇,2011,『コミュニティの創造的探求』新曜社.
- 金子勇,2023,『社会資本主義』ミネルヴァ書房.
- 金子勇編,2024,『世代と人口』ミネルヴァ書房.
- 宮本憲一,1967,『社会資本論』有斐閣.
- Moore,J.W.,2015,Capitalism in the Web of Life : Ecology and the Accumulation of Capital, Verso.(=2021山下範久・滝口良訳『生命の網のなかの資本主義』東洋経済新報社).
- 室田武,2015,「宇沢理論における経済の形式と実在」『現代思想』第43巻第4号 青土社:204-213.
- Niebuhr,R.,1932, Moral Man and Immoral Society, Charles Scribener’s Sons. (=2024 千葉眞訳『道徳的人間と非道徳社会』岩波書店).
- Olson,M.,1965,The Logic of Collective Action, Harvard University Press.(=1983 依田博・森脇俊雅訳『集合行為論』ミネルヴァ書房).
- 奥和田久美,2019,「政策のための予測を俯瞰する」山口富子・福島真人編『予測がつくる社会』東京大学出版会:195-222.
- 大塚信一,2015,『宇沢弘文のメッセージ』集英社.
- Parsons,T.,1951,The Social System, The Free Press.(=1974 佐藤勉訳『社会システム論』青木書店).
- Sennett,R,1977,The Fail of Public Man, Cambridge University Press(=1991 北山勝彦・高階悟訳『公共性の喪失』晶文社).
- 鈴木広,1986,『都市化の研究』恒星社厚生閣.
- 宇沢弘文,1973,「都市装置の理論」伊東光晴ほか編『現代都市政策Ⅷ 都市の装置』岩波書店:51-70.
- 宇沢弘文,1977,『近代経済学の再検討』岩波書店.
- 宇沢弘文,1995,『地球温暖化を考える』岩波書店.
- 宇沢弘文,2000,『社会的共通資本』岩波書店.
- 宇沢弘文,2002,「地球温暖化と倫理」佐々木毅・金泰昌編『公共哲学9 地球環境と公共性』東京大学出版会:33-46.
- 宇沢弘文,2008,「地球温暖化と持続可能な経済発展」『環境経済・政策研究』Vol.1,No.1岩波書店:3-14.
- 宇沢弘文,2010,「社会的共通資本としての医療を考える」宇沢弘文・鴨下重彦編『社会的共通資本としての医療』東京大学出版会:17-36.
- 宇沢弘文・鴨下重彦編,2010,『社会的共通資本としての医療』東京大学出版会
- 栁沼壽,2014,「地球環境問題と自省的組織の役割」間宮陽介ほか編『社会的共通資本と持続的発展』東京大学出版会:203-234.
- 吉岡斉,2015,「原子力発電について沈黙した宇沢さん」『現代思想』第43巻第4号 青土社:191-195.






