「戦略的曖昧さ」こそ「第3の選択肢」だ

バイデン前米政権下で国務長官だったアントニー・ブリンケン氏は質問する記者団に向けて、「仮定に基づいた質問には答えない」と、事前に釘を刺した、ということを聞いた。なぜそのようなことを言うのかというと、高市早苗首相が7日、国会での答弁で野党立憲民主党の岡田克也議員から台湾の有事に関連して具体的な質問を受けた際、律義にその質問に返答したことが契機となって、中国共産党政権の恣意的な反発を誘発し、現在のような日中間の険悪な対立が生じているからだ。

総合経済対策で会見する高市首相、首相官邸サイトから、2025年11月21日

高市首相の答弁を批判しているのではない。岡田議員は外相を務めた経験もあり、政府の立場を良く知りながら、首相就任直後の高市首相から「台湾危機は存立危機事態」という言質を引き出そうと腐心した人間としての品格を問題視しているのだ。

国家の安全防衛問題では、政府側が返答できないケースは当然出てくる。そのような分野の質問に対し、政府関係者は返答する必要はない。「仮定に基づいた質問」をする側には一定の狙いがある場合が多い。だから、その仮定に基づいた質問に丁寧に返答すれば、相手側の思う壺にはまることになりやすい。

ちなみに、仮定(assumption)とは、現実にはそうでもなくても、「もしそうならば」という前提を設けて思考を進める手法だ。

そこで仮定の質問について演習してみよう。「もし宝くじが当たったならどうしますか」という質問を受けたとする。これは仮定だが、「そうですね、世界一周の旅に出かけたいです」と返答したとしてもまったく問題はない。また、「もしあなたが男性だったら、何をしますか」と女性に聞いたとする。これも仮定に基づいた質問だが、まだ返答できる範囲の質問だろう。

ただ、政治家に「もしロシア軍が北海道に侵攻した場合、あなたは自衛隊を出動させ、米軍の支援を要請しますか」とジャーナリストが聞いた場合、政治家は答えるのに窮するかもしれない。しかし、政府の基本的な立場を説明して、「あらゆる手段を駆使して、国の防衛のために対応します」という程度は可能だろう。「もし日本駐留の米軍が本国に帰還した場合、日本は自国で核兵器を保有する道を考えますか」と質問された場合、答えに窮するだろう。ブリンケン氏は「そんな仮定の質問に答える時間がないよ」と一蹴するだろう。そうではなく、答えた場合、程度の差こそあれ何らかの波紋が出てくることが避けられない。

仮定に基づいた質問に対して、政治家の中にはサービス精神から答えようとすることもある。ベテランの記者ならば政治家が困るような仮定の質問を1つや2つ用意しているから、政治家は用心しなければならない。

ところで、21世紀の今日、「曖昧さ」が恣意的に広がってきている。ハーフ・トゥルース、イン・ビトゥイーンといった中間的な立場を意味するのではなく、「曖昧さ」というはっきりとした選択肢として台頭してきているのだ。「イエス」か、「ノー」か、それとも「曖昧さ」か、といった3者選択の世界だ。

「曖昧さ」を考える場合、軍事用語の「戦略的曖昧さ」(strategic ambiguity)を考えれば一層理解しやすい。敵に対して恣意的にはっきりとした手の内を明かさない。分かりやすい例を挙げれば、パレスチナ自治区ガザでイスラム過激テロ組織「ハマス」と戦闘中のイスラエルは核兵器を保有しているか否かだ。イスラエル側は過去、一度も公表したことがない。これなどは明らかにイスラエル側の恣意的な「戦略的曖昧さ」というべきだろう。

「戦略的曖昧さ」は自軍の攻撃に幅を付ける一方、敵側は負担が増すことになる。「曖昧さ」が大きな武器となるのだ。現代人が世界の動向に対して楽観的より、悲観的に考える傾向が強まってきていることもあって、その心理的効果は増幅する。人は「白」か「黒」か判明できない曖昧な状況下では不安、恐怖を感じるものだ。

まとめる。政治家は今後、仮定に基づいた質問にはできるだけ答えないことだ。特に、国防安全問題に関連した場合はそうだ。そして第3の選択肢として「曖昧さ」の重要性を再認識すべきだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年11月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。