公共選択論とは?「自由主義者たちが直面する政治的混乱について」

こんにちは!自由主義研究所の藤丸です。

今回は友人の寄稿で、フランスのリバタリアン党のHPで紹介されている記事を紹介したいと思います。

政治が混乱しているフランス。日本も彼らの視点に学ぶことがあるかもしれません。

少し難しい内容も含みますが、フランスの自由主義者たちがどのように考えているかを知ることは、日本の自由主義者にとっても意義のあることだと思います。

※以下、寄稿いただいた文章です。

日本ではここ最近、政権与党である自民党が長期にわたって保持してきた過半数を失い、公明党との連立政権も崩壊するなど、かつてないような政治的に不安定な状況があります。

一方フランスでは、マクロン大統領が2024年6月に下院を解散して以降、過半数勢力が不在の分断議会で野党諸派の連携による不信任が相次ぎ、首相はミシェル・バルニエ(2024年9月就任)→フランソワ・バイル(同年12月)→セバスチャン・ルコルニュ(2025年9月)と3度交代する異例の状況が続いています。

このように、先進民主主義国の双方で政治的基盤が揺らぐ現象を、自由主義者としてどのように分析できるでしょうか?

この記事は、仏リバタリアン党の協力を得て、フランスの政治情勢および自由主義者がその状況をどのように分析すべきかについて論じたコラムを翻訳したものです。

フランスと同様に、政治的な不安定な状況に直面している日本の自由主義者にとっても、有意義な内容になるでしょう。

筆者である元大学教員であるセルジュ・シュヴェツァー(Serge Schweitzer)氏は、オーストリア学派経済学を専門とする経済学博士であり、フランスの自由主義運動に深く関与していた方です。英語翻訳は、同じく経済学博士であり、エクス=マルセイユ大学名誉教授のエマニュエル・マルタン(Emmanuel Martin)氏によって行われました。

原文はこちらです ↓

France 2025 : la tribune de Serge Schweitzer. - Parti Libertarien
La France connaît une période d’instabilité politique jusqu’alors inconnue. Comment un libertarien cohérent peut-il analyser cette situation ?

※脚注は私です

自由主義者たちが直面する政治的混乱

驚くべきことがあります。

我が国フランスで、以前から進行してきた出来事——特にこの一年間の政治家、官僚、国家指導者たちの本質において最も極端かつ露わな形で表出されたもの——に対する、大多数の自由主義者の落胆した反応(思想の領域であれ行動の領域であれ)です。

俗に言う「蜂蜜の壺」

フランス国民と世界全体の目の前で、「公益」や「共通善」を代表すると称する者たちが、日々見せている光景は、見るに堪えない混合物です。

その中身は——自ら掲げた理念の3分の1の裏切り、3分の1の無知、そして残りの3分の1の冷笑と否認で構成されています。

まるでペテロのキリスト否認※1)など、彼らの否認に比べれば幼稚園児の練習のように見えるほどです。

※1) 聖書でペテロが三度イエスを知らないと否定した件を取り上げて、それよりも酷い政治家の醜さを批判していること。

ですが、古いフランス映画『マリウス』の中でレイミュ※2)が「3分の3には4分の3がある」と言ったように、彼らの「第4の3分の1」は、異常なほどの臆病さへの耽溺※3)です。

※2)レイミュ: フランスの俳優。本名はジュール・オギュスト・ミュレール(Jules Auguste Muraire)
※3)要するに「政治家の問題点は三つではなく四つである」というフランス流ジョーク。

世間の反応

この芝居のような政治劇は、多くの観察者、記者、評論家、そして率直に言えば一般のフランス国民からも「見るに堪えないもの」とみなされています。この反応はもっともであり、また「国家の徳」を信じる人々にとってはごく当然のものです。

すなわち、国家の介入は有益だと考える人々、代表者たちが官僚という技術者の助けを借りながら「公共の利益」を実現していると信じる人々、そしてそれが普通選挙、すなわち民主主義の結果であると考える人々にとっては、現状は「見るに堪えないもの」なのです。

民主主義では、国民は主権者であり、集団として誤ることはないと想定されています。ゆえに、選出された代表者たちは、公共の利益や共通善を最大化しようとしている――少なくともそう信じられています。

つまり、各決定が失われる票と得られる票の損得勘定によって左右されるような卑しい計算ではない、という幻想があるのです。

しかし、このブールバール演劇※4)を観察している者が自由主義者なら、今目の前にある光景を嘆くべきでも、驚くべきでもありません。むしろ喜ぶべきなのです。なぜなら、この光景はまさに、自由主義者たちが長年主張し、書き、説いてきたことを完全に裏づけているからです。

※4)ブールバール演劇:パリのブールバール通りにある多くの劇場で上演された、風俗喜劇全般のこと。

自由主義者にとって、「公共財の生産」「法の制定」「正当な暴力の独占」を職業とし、私たちの労働の成果の相当部分を奪取することを専門とする者たちとはいったい何者なのでしょうか?

(もちろん国家の人々は、「公共サービスをここで」「再分配をそこで」「そしてあらゆる介入を通じて最大多数の福祉を高める」と宣伝します。しかしそれは、過剰に富を所有する者たちから奪う口実に過ぎません。しかも、その富は「不正に」「詐欺的に」築かれたものであり、消費者を搾取するか、労働者を苦しめるか、そのどちらかの結果だと彼らは信じ込んでいます。)

自由主義の再確認

ところが驚くべきことに、いや、むしろ当惑すべきことに、思想家・実践者・観察者としての自由主義者の多くが、今起きていることに狼狽しているように見えるのです。

しかし、目の前で繰り広げられている出来事こそ、ジェームズ・ブキャナンやゴードン・タロックといった著名な自由主義経済学者・政治学者たちが展開し「公共選択論(Public Choice Theory)」を完全に裏づけています。

この理論によれば、「公共財の起業家」、すなわち政治的起業家とは、他の人々よりも優れているわけでも、劣っているわけでもありません——平均的な私たちと同じ、合理的な個人にすぎないのです。

政治家たちは将来を見据え、自らの立場や決定を評価し、民主主義のもとでは当然の目標——すなわち「票の最大化」——を目指して行動します。

これは、私たちが日常のあらゆる意思決定において、利用可能な情報を基に「より満足をもたらす選択肢」を選ぶことと本質的に変わりません。

この見方の革命的な点は、自由主義者だけが視点を完全に逆転させたということです。

すなわち、政治家たちは「公共の利益」を追求しているのではなく、自らの利益と満足を追求している——これが自由主義者の主張なのです。

そしてその「公共の利益」なるものは、結局のところ「権力(=強制)を握る者たちのその時点での見解」にすぎません。

政治家や官僚が「自分は最善の決定をしている」と誠実に信じていたとしても、それはあくまで彼ら自身の決定であり、その瞬間の彼らの主観的判断です。それが「公共の利益」や「共通善」と呼ばれるかどうかは、まったく別問題なのです。

一貫した自由主義者は何を考えるべきか

自由主義者、すなわち知識と理解に基づいて状況を分析し、自由・責任・私有財産の効用を信じる人は、現在の状況に希望と可能性そして潜在的な好機を見出して喜ぶべきです。

自由主義者の理念が勝利するのは、「救世主への信仰」と「国家による解決策への幻想」が、多くの人々の心の中で打ち砕かれ失墜したときだからです。

いま現在、社会主義者のオリヴィエ・フォール※5)のような人物を恐れ、「ブルボン(フランス国会の別名)」が「泥沼※6)」と化したような政府が見せているこの滑稽で悲惨な政治劇こそ、政治家という存在の本質を暴き出す貴重な機会なのです。

※5)オリヴィエ・フォール: フランスの政治家。社会党の第一書記でもある。
※6)フランス語で泥沼はbourbier。ブルボン(Bourbon)との言葉遊び。

これは決してシニシズムではありません。むしろ、「国家が公共の利益を代表する」と信じられてきた幻想を壊す、歴史的なチャンスだと理解すべきです。

自由主義者はこの状況を、自らの理論の正確さと実りを示す絶好の機会として最大限に活用しなければなりません。

そして、これらの考えを表明する際に、「ポピュリスト」だとか「ファシスト」だとか非難されることを恐れて、口をつぐんではなりません。

むしろ、「悪徳が美徳に敬意を払う」瞬間、つまり論敵が理屈で反論できず、罵倒しか手段を持たなくなった証拠だと理解すべきなのです。


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2025年11月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。