対話は、一方が話し、他方が話し返すことだが、一方が他方を問い質したり、問い詰めたりするものではないので、質疑応答ではなく、双方が自分の主張を戦わせるものではないので、討論や論戦ではなく、双方の間に何らかの合意の形成を目指すものではないので、交渉や相談ではなく、双方が勝手気儘に話す無秩序な雑談でもない。

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質疑が対話でないのは、質問は、常に、問う人の自分の関心から発せられるからである。同様に、論戦においては、主張は、常に、発言するものの立場においてなされ、交渉においては、提案は、常に、当事者が自分の利益を守るためになされ、雑談においては、お喋りは、常に、話す人の快楽である。つまり、質疑、論戦、交渉、雑談においては、話す人は、常に、自分のために、自分の立場から話すのである。
英語においては、I go to you ではなく、I come to you といわれる。私が君の所へ行くという表現は、私を中心にしたものであるの対して、君の所へ私が来るという表現は、君を中心にしたものであって、英語では、君を中心にして発話されるのである。
質疑においては、問う人を中心にして、質問がなされるのに対して、対話においては、問われる人、即ち、応答する人を中心にして、質問がなされる。つまり、質疑において問う人は、自分の求める答えをもっていて、相手から満足する答えが得られないときは、満足するまで問い続けるのだが、対話において問う人は、相手が話したいことを予想して問うのであって、予想に反した答えを得たときは、別な予想のもとで問い直すわけである。
例えば、質疑において、何々しないのかと問う人は、相手は何々すべきだ、何々するはずだという前提のもとで問うのであって、相手が何々しない理由を述べるときは、相手が何々することに同意するまで、質問という形式のもとで、反論を試み続けるのだが、対話において、何々しないのかと問う人は、相手には何々しない理由があるはずだとの前提のもとで、その理由を知るために問い、答えを知ることで相手についての理解を深めるのである。
こうした対話のあり方こそ、哲学でいうprinciple of charity、即ち、好意的解釈の原則なのである。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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