黒坂岳央です。
昨今、生成AIの台頭によって「検索(ググる)」という行為そのものが減少しつつあるというデータが出ている。これ自体、不思議なことではなくChatGPTが話題になった頃からずっと言われていたことだ。
Google経由のサイト訪問、日本でも3割減 AI要約の浸透でhttps://t.co/cRTEXBNTQm
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) November 26, 2025
筆者自身、複数の生成AIサービスに課金し、日常的に使っている。単純な調べ物やコードの生成、壁打ち相手として、AIはあまりにも優秀だ。以前のように、欲しい情報にたどり着くために検索結果のページを何往復もすることは確かに激減した。
しかし、ではGoogle検索を全く使わなくなったかと言えば、答えは「No」だ。 むしろ、AIを使えば使うほど、逆に「検索」という行為が持つ独自の価値が浮き彫りになったと感じる。

Prykhodov/iStock
AIで「平均値」を出し、検索は「偏り」を探す
生成AIの回答は、基本的に「過去の膨大なデータの平均値・最適解」である。 たとえばあるニュースについて尋ねれば、AIは事実関係を整理し、非常に論理的で、誰が読んでも角が立たない「きれいな要約」を提示してくれる。これは時短という観点では素晴らしい。
しかし、ビジネスや人間関係の機微において、我々が知りたいのは「きれいな要約」だけではない。 「このニュースに対して、世の中の人間は具体的にどう感じているのか?」 「どの層が怒り、どの層が喜んでいるのか?」 こうした「感情の分布」や「熱量」を知りたいとき、やはり検索は使える。
「誰が言ったか」の重要性
また、情報の価値は「何が書かれているか」だけでなく、「誰が書いたか」に強く依存する。
生成AIは情報をフラットに扱い、ソースを混ぜ合わせて回答を生成する(昨今はソース元を提示するAIも増えたが、基本構造は変わらない)。そこでは、情報の出所が持つ「重み」が希釈されがちだ。
一方で検索を行い、特定の個人ブログや専門サイトを訪れる行為は、その情報発信者の「顔」を見に行くことに他ならない。 「情報は信頼性さえ高ければいい」というのは半分正解で半分間違いだ。誰もが時には、「客観的な正解」ではなく、「あの人はこの事象をどう捉えたか」というその人独自のフィルターを通した主観的な意見を求めている。
信頼する業界の論客や、自分と趣味嗜好が似ている個人の意見は、たとえそれが客観的に見て「偏った意見」であっても、読み手にとってはAIが出す「一般的な正解」よりも深く刺さり、意思決定の参考になる。
この「指名検索」的なニーズは、どれだけAIが進化しても代替できない領域だろう。
考察や感想は人間の独壇場
特にAIではなく、作品や商品、サービスの考察や感想について言えば完全に人間の独壇場ではないだろうか。
たとえば漫画、映画やゲームなどのおすすめ作品の提案がそうだ。筆者は好きなレビュアーがいるのだが、その人物が勧める作品は疑わず、まず見てみるということをやってきた。結果として良作に出会う事が多く大変満足している。
たとえばこのような領域において、AIから筆者にドンピシャのおすすめ作品を引き出すことは難しい。多くの人が求めるおすすめとは、自分と似たようなテイストの人物のフィルタリングを通ったレコメンドなのだ。
それはエレクトロニクスといったコモディティ化され、性能勝負する世界でも変わらない。機器の性能だけではなく、手触り、利用シーン、デザイン、好みなどは千差万別で数値化出来ない要素はやはり、人間から感想を聞きたいものなのである。
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これからの時代、「検索」の役割は変化する。 「答え」をゼロから探す作業はAIに任せればいい。その代わり、人間が行う検索は、AIが出した回答の「空気感の確認」や「人間的な視点の補完」、そして「情報の裏取り」という、より高度な確認作業へとシフトしていくだろう。
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