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(前回:ウクライナが守られなかった理由:広島出身精神科医が解く覇権拘束型核抑止(上))
前回は、ウクライナが守られなかった理由は「条約の欠如」ではなく、米国にとって「核リスクを冒してまで守る価値」が見出されなかったからだと論じた。
では、小国がいかにして覇権国(米国)に「守らざるを得ない」と思わせるか。ここで「覇権拘束型核抑止」という視点が必要になる。
「窮鼠猫を噛む核」論の限界
よくある俗説に、小国が追い詰められたとき「やけくそで核を使う」と脅せば大国を抑止できる、というものがある。しかし、米国の同盟国に限って言えば、これは成立しない。
スコット・セーガン(Scott Sagan)らの研究が示す通り、米国は同盟国が核を保有しても、技術供給や指揮統制を通じてその運用能力を実質的にコントロール下に置く。イスラエルに対してさえ、米国は黙認と引き換えに管理に関与してきた。
つまり、同盟国が米国の反対を押し切って単独で核ボタンを押すことは、構造的に抑圧されている。したがって「核さえ持っていれば好きに撃てる」という単独抑止論は成り立たない。
■覇権拘束型核抑止──資産価値の防衛
撃てない核に意味はないのか。いや、撃てない核こそが「覇権国を縛る最大の鎖」となる。
もし、核保有同盟国が、核を使えないまま侵略を受けて敗北した場合、世界はどう捉えるか。ダリル・プレスの議論に基づけば、世界は「米国は、核保有同盟国でさえ見捨てる」と学習するだろう。さらにトーマス・シェリング(Thomas Schelling)が「脅しの信憑性」を重視したように、核保有国が核を封じたまま敗北することは、“最大限の脅しが不発に終わった”という最悪のシグナルとなる。
ここで参照すべきは、恐喝外交の古典的議論である「手を縛る戦略(Tying Hands)」や、ヴィピン・ナランが地域核戦略の中で論じた同盟国巻き込みのメカニズムである。
ミネソタ大学のマーク・ベル(Mark Bell)が「核保有は国家の行動様式を構造的に変える」と述べた通り、覇権国が核保有同盟国を見捨てた瞬間、米国は甚大な損害を受ける。具体的には、日韓・中東諸国の独自核武装ドミノやNPT体制の崩壊、米軍の地域支配コストの急増といったリスクが現実味を帯びる。
つまり、核保有同盟国の敗北前例は、覇権の根幹を崩す“資産価値の毀損”に他ならない。だからこそ米国は、核保有国を見捨てることができない。ゆえに、核保有小国には抑止力が生まれる。これが「覇権拘束型核抑止論」である。
日本が直面する「二重拘束」
ここで少し、私の本職である精神医学の視点で例えてみよう。
米国は日本に対し、「強くあれ(負担を分担せよ)」と求めつつ、「強くなりすぎるな(核を持つな)」とも求めている。この日米関係は、一種の“ダブルバインド(二重拘束)”の構造となっている。
この矛盾したメッセージの中で、敗戦後の日本はあたかも外傷的育ちを持った患者のように、「見捨てられ不安」と「従属的安心」の間を揺れ動き、不安定な立ち位置を強いられてきた。
現在の核議論は、この二重拘束をどう再構築するかというテーマでもある。単に兵器を持つか否かではなく、日米関係の病理を乗り越え、対等な運命共同体へと成熟できるかが問われている。
日本の選択肢
私は安易な核武装論を主張したいわけではない。コストとリスクがあまりに大きいからだ。しかし、この議論をタブー視して除外すれば思考停止に陥る。
重要なのは、核の役割を「敵を脅す兵器」としてではなく、「覇権国を逃げられなくする拘束装置」として評価し直すことだ。その上で、日本には複数の選択肢がある。核共有(ニュークリア・シェアリング)の強化、在日米軍の“代替不可能性”を高める地政学的戦略、あるいは限定的な核保有を選択肢から除外しないという“潜在的拘束力”の維持。
いずれにせよ、米国にとって「見捨てれば覇権コストが跳ね上がる国」としての地位を確立することが、安全保障の本質である。
ウクライナが守られなかった理由を直視することで、核抑止力の深部構造が浮かび上がる。広島で育った私が核の有用性を論じることになるとは想定外であった。しかし、私たちが学ぶべきは感情論ではなく構造の理解である。核武装論の解像度を上げることが、より確実な核抑止論へ繋がると確信している。






