黒坂岳央です。
一人暮らしでフルリモート。この一見すると自由で快適な生活スタイルが、実は「社会性」を奪い取ると思っている。
もちろん、全員ではないし大多数の人は健全な精神状態を維持出来ている。自己規律を持ち、意識して適度に外部との接点を設けている人々にとっては、要らぬお世話だろう。
その一方で完全なる孤独に落ちると、人は徐々に社会性をなくしてしまう生き物であり、その流れに抗える人は多くないと思っている。
本稿は一人暮らしフルリモートをバカにするものではない。自分自身もフルリモートで仕事をやっている。自分の体験からも、そこに潜むリスクを言語化する意図を持って書かれた。

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孤独になると人は狂う
昨今、「独身で中年になると狂う」「完全FIREすると狂う」といった意見をよく見る。本稿の「一人暮らしフルリモート」についても、似たような原因を共通して持つ。一体、それは何か?「社会性の欠如」である。
過去記事で書いたことがあるが、筆者は早期FIREした人間、定年退職をした人間を何人か知っている。彼らは現役時代は温和で誠実だったにもかかわらず、リタイア後しばらくして店員に怒鳴り散らしたり、周囲を見下すような言動が目立ち始めた。
これは脳が他者からのフィードバックを失い、自己客観視を司る前頭前野の機能が低下することで、認知の歪みを修正できなくなるために起きるのだろう。科学的にも、社会的隔離は攻撃性の増加や共感性の欠如を招くことが示唆されている。他者の視線という「外圧」を失った人間は、忍耐力が消えていく。
また、YouTube動画には「資産運用で成功して巨万の富を得た。最初は人生の夏休みを謳歌していたが、孤独に落ちて狂い、海外の高級ホテルの一室で朝から酒を浴びるように孤独が飲んで辛くて泣き続ける」といった体験談の投稿もある。
さらに自分自身、独立後に「一度、仕事も何もかも止めて何もしなかったらどうなるんだろう?」と興味が湧いて、一日中ひたすら遊んで生活をしてことがあった。筆者は家族がいるが「このままだと精神がおかしくなる」と感じて忙しい仕事の日々に戻った経験がある。
全員がここで書いたようになるわけではない。だが、「社会性の欠如」は人を狂わせやすい要素であることは否定できない。
そもそも社会性とは何か?
そもそも「社会性」の本質とは何か。それは単に「愛想よく振る舞うこと」ではなく、「不確実性や想定外の事態に対する耐性」のことである。
人間は加齢とともに経験を積み、自己理解を深めていく。その過程で「自分にとっての最善の戦略」や「効率的なルーチン」を確立していく。「他者にじゃまされたくないマイルール」がドンドン増えていく。
これは生存戦略、自分の人生の効率を最大化させるには正しい。だがその副作用として「自分のペースや想定通りにいかないこと」への不満や拒絶が強まる。思い通りに行かない時のストレスに耐えられなくなっていくのだ。
通常、組織や社会の中で働いていれば、嫌でも「思い通りにいかない他者」と対峙し、調整を強いられる。この「適度な摩擦」が、不確実性への耐性を維持するトレーニングとなっている。
筆者の場合、この「不確実性への耐性」を劇的に鍛え上げてくれたのが「育児」だった。
育児は孤独とは真逆にある。筆者はかつて、短気、頑固で取り扱いにくい性格であった。しかし、子供という存在は24時間365日、こちらの予測を裏切り続ける。そこには「自分はこうしたい」という主体性や計画が入り込む余地などない。常に相手に合わせ、学校や園、保護者同士といった広範かつ多様なコミュニティとの接点を強制的に持たされる。
この「24時間、不確実性の海に放り込まれる」経験を経て、自分自身が驚くほど「丸くなった」と感じた。今では多少思い通りにいかなくても強烈な不満を抱くことはなくなり、「まあそういうこともあるよね」と軽く受け流せるようになったのだ。
もちろん、こう書くと反発もあるだろう。「職場の無駄な人間関係や、ストレスフルな付き合いこそが精神を病ませる原因だ。一人の方がよほど健全」と。その指摘は正しい。無理に「有害な人間関係」に身を置き、心を壊しては元も子もない。
しかし、ここで強調したいのは、「有害な摩擦を避けること」と「あらゆる摩擦をゼロにすること」は全く別物だということだ。
嫌な上司と酒を飲む必要はないが、自分の思い通りに動かない「他者」という存在そのものから隔離されると、脳は確実に退化し始める。必要なのは「ノイズの完全なる除去」ではなく、自分がコントロールできる範囲での「良質な摩擦」なのだ。
社会性の欠如は治療不能
一人暮らしフルリモートかつ交流を絶った環境は、「他者という不確実性」を生活から徹底的に排除することになる。その結果、自分のペースはいよいよ強固に固定化され、他人と時を過ごすこと自体が耐えがたい「罰ゲーム」になる。
一度、極限まで自分のペースに最適化された生活に慣れてしまうと、他人の一挙手一投足が耐えがたいノイズになる。
社会的なイベント、冠婚葬祭、そしてオフィスでの仕事…こうした他者が介在し、社会性を求められる場面に耐えられなくなっていく。
こうなると「治療」は極めて困難だ。細りきったコミュ筋肉で再び社会に漕ぎ出すのは、重度の筋肉萎縮を起こした人間が突然フルマラソンに挑むようなものである。
SNSでは「ずっと一人の方が気楽でいい」「一生、誰とも絡みたくない」という声が散見されるが、その感覚こそが、社会性が失われていることから起きているのではないだろうか。
一人が楽なのではない。他者という「ノイズ」を処理する耐性が落ちていると表現するほうが妥当だろう。
◇
今後、AIやオフショアの台頭により、「投げられた仕事をこなすだけのポジション」の価値は低下し続ける。生き残るために必要なのは、属人性の高い、すなわち「他者と深く関わり、価値を開拓する仕事」である。
だが、社会性が死んでしまうと、仕事の開拓も新しい人間関係の構築も叶わない。
どんな趣味や活動でもいいので、自分を「想定外の他者」という摩擦に晒し続けることは、社会性をゼロにしないための治療法となるだろう。
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