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これまでにアゴラにおいて、縄文時代・弥生時代・纏向時代を生きた人々が、太陽の出入りと信仰対象(祖神の墓や特徴的な地形)の方位が一致するように宗教インフラを配置させている可能性を示してきました。
今回は、このシリーズ記事として、古墳時代の大王とその関係者を被葬したと推察される畿内の大型前方後円墳について、その主軸方位に着目することで、その配置の思想の変遷を読み解いてみたいと思います。
畿内におけるメジャーな古墳群としては、図1に示すものがあります。
図1 畿内の主要な古墳群
考古学分野では、これらの古墳群を構成する個別の古墳に対して、主として円筒埴輪の時間的変遷に着目して編年(年代決定)を行っています。例えば、白石太一郎氏は、時間と空間を軸にして個別の古墳の寸法を図2のようにプロットしています。
図2 大型古墳の移動現象
ここで、畿内の主要な古墳群(大和・佐紀・馬見・古市・百舌鳥)における古墳の空間分布を個別に見ていきたいと思います。
1. 大和(大和・柳本・纏向・鳥見山)
大和古墳群における前方後円墳の空間分布を図3に示します。図中の番号は、白石氏の編年などに基づき、古墳が建造された順番を示したものです。また、必要に応じて古墳の方位を黄文字で示しています。ここに「⊥」記号は、示した日出・日入方位と時計回りに90度回転した方位を意味することとします。
図3 大和古墳群の主要な古墳
(地図は国土地理院の色別標高図)
大和古墳群は、実在の可能性が高いとされる崇神天皇から数代の大王が宮を置いたとされる地域に位置しており、最も古い時代の前方後円墳で構成されます。
その中でも最も古いものが、纏向に位置する「纏向型前方後円墳」と呼ばれる前方部が小さい5つの前方後円墳です。これを前方後円墳とするか否か、その建造を古墳時代とするか否かという議論がありますが、その可否は後世に作られた「前方後円墳」「古墳時代」の定義に依存するものであり、本質的な意味はありません。この纏向型に続いて建造されたのが、疑いもなく古墳時代の幕開けを告げる「最初の前方後円墳」とされている箸墓古墳です。
大和古墳群の前方後円墳の方位に着目すると、その主軸(前方部の中心点と後円部の中心点を結ぶ線)が、特定の季節(夏至・冬至・立春・立秋・春分・秋分)の日出・日入の方位や八方位(東・西・南・北・北東・南東・北西・南西)と一致していることがわかります。
また、そのいくつかは穴師山(箸墓古墳・行燈山古墳)、龍王山(纏向矢塚古墳・渋谷向山古墳・黒塚古墳)といった特徴的な山の方位に向いています。これは古墳から眺望する天体の方位と山の方位を一致させるよう勘案して、古墳の位置と方位を決定したものと考えられます。
このことは、天体の方位と信仰対象の方位を一致させて宗教インフラを配置したと考えられる弥生時代の出雲の思想と一致するものです。
2. 佐紀古墳群
佐紀古墳群は、大和古墳群において大型前方後円墳の建造が終息すると同時に建造が開始されました。この周辺地域に影響力をもつ有力な氏族としては、和邇氏(春日氏の祖)・息長氏が挙げられます。
図4 佐紀古墳群の主要な古墳
佐紀古墳群には、墳丘長200mを超える大型前方後円墳が8基存在します(図4)。いずれも北方を向いているのが特徴的ですが、そのうち5基は西微北~北北西、1基は真北、2基は東微北と北北東を向いています。
3. 馬見古墳群
馬見古墳群は、奈良盆地西部の南北に広い地域に位置する古墳群です(図5)。佐紀古墳群における大型前方区円墳の建造開始後、まもなくして建造が始まりました。
図5 馬見古墳群の主要な古墳
この北部地域に影響力をもった有力な豪族として平郡氏、南部に影響力をもった有力な豪族として葛城氏が挙げられます。なお、巣山古墳は、これ以前に建造された大型前方後円墳とは異なり、南方を向いているのが特徴的です。相対的に南部に位置する新木山古墳と築山古墳は西方位を向いています。
4. 古市古墳群
古市古墳群は、奈良盆地から大和川を下って大阪平野に出た地域に位置します(図6)。佐紀古墳群における大型前方区円墳の建造開始後、まもなくして建造が始まりました。
図6 古市古墳群の主要な古墳
主要な前方後円墳としては、墳丘長が日本2位、体積が日本最大の規模をもつ誉田御廟山古墳(宮内庁比定応神天皇陵)があります。また、誉田御廟山古墳の規模があまりにも大きいので目立ちませんが、仲ツ山古墳も日本9位の墳丘長を持つ巨大古墳です。誉田御廟山古墳と市ノ山古墳は、巣山古墳と同様に南方を向いています。古墳群の南部には、概ね東方位をもつ野中宮山古墳・墓山古墳・軽里大塚古墳が位置しています。
5. 百舌鳥古墳群
河内平野西部の瀬戸内海に近い地域に位置します(図7)。佐紀古墳群における大型前方区円墳の建造開始後、まもなくして建造が始まりました。
図7 百舌鳥古墳群の主要な古墳
主要な前方後円墳として、墳丘長が日本最大の大仙陵古墳(宮内庁比定仁徳天皇陵)、同3位の上石津ミサンザイ古墳、同7位の土師ニサンザイ古墳があります。
この古墳群の方位で特徴的なのは、夏至日入に直交するような北北東方位の前方後円墳群(乳岡古墳・上石津ミサンザイ古墳・大仙陵古墳・田出井山古墳)と立春日出方位に近い東南東方位を向く前方後円墳群(大塚山古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳・土師ニサンザイ古墳)という2群の前方後円墳で構成されていることです。
特に留意が必要なのは、この古墳群の中ではやや小規模な乳岡古墳(墳丘長155m)の方位を巨大古墳の上石津ミサンザイ古墳・大仙陵古墳、そして田出井山古墳が踏襲していることです。この古墳群のパイオニアとなった乳岡古墳の被葬者は、地位は高くないもののカリスマ性が高い人物であったと推測するところです。
古市古墳群と同様、概ね東方位(東南東方位)を向く前方後円墳群が古墳群の南部に位置しています。馬見古墳群の状況も踏まえて一般化すれば、古墳群の北部では概ね南北方位の古墳が卓越し、南部では東西方位の古墳が卓越しているといえます。
以上に紹介した古墳群に比較的小規模な古墳群を加えて、個別の古墳データを整理したものが、表1(奈良盆地)と表2(大阪平野)です。これらの表は、140m(古代尺度60歩)以上の墳丘長をもつ畿内の前方後円古墳をすべて網羅しています。また、初期の大和古墳群については、いくつかのエポックメイキングな小型前方後円古墳も含めて示しています。
表1 奈良盆地における主要な大型古墳
表2 大阪平野における主要な大型古墳
以上を基に、古墳の大きさに加えて方位を表現した古墳の編年図を図8に示します。この図には、魏志倭人伝に見られる卑弥呼の死亡年(248年頃)、広開土王碑の碑文に見られる倭の朝鮮半島攻撃(391年)、宋書に見られる倭の五王(讃・珍・済・興・武)の朝貢記録といった中国・朝鮮の史料に認められる事案も同時に示しています。
図8 古墳の方位を表現した畿内の大型古墳の編年図
この編年図をみると、次のような時系列変化の傾向を伺い知ることができます。
- 3世紀前半に纏向で小規模な前方後円墳(纏向型前方後円墳)の建造が始まり、3世紀後半になると最初の大型前方後円墳として箸墓古墳が建造された。
- 4世紀前半まで建造された大和古墳群(纏向・大和・鳥見山・柳本)は、太陽の出入の方位と信仰対象(山)の方位を一致させる古代出雲のインフラと類似している。
- 4世紀中頃の宝来山古墳(佐紀古墳群)の建造以降、西微北~北西方位の前方後円墳が、佐紀古墳群・馬見古墳群・百舌鳥古墳群・淡輪古墳群で同時多発的に建造された。一方、大和古墳群で大型前方後円墳の建造は終息した。
- 4世紀末頃から馬見古墳群・古市古墳群・百舌鳥古墳群・淡輪古墳群で多様な方位の前方後円墳が建造されるようになる。ただし、古墳群の北部では概ね南北方位の古墳が卓越し、南部では東西方位の古墳が卓越している。
- 巨大前方後円墳である誉田御廟山古墳・大仙陵古墳・上石津ミサンザイ古墳は5世紀中頃までに建造された。
- 佐紀古墳群・馬見古墳群においては、5世紀半ばに大型前方後円墳の建造が終息した。
- 古市古墳群・百舌鳥古墳群・淡輪古墳群においては、5世紀末に大型前方後円墳の建造が終息した。
- 6世紀になると、大型前方後円墳はほとんど建造されなくなる。
ここで、今回作成した大型前方後円墳の編年図、中国・朝鮮の史料、記紀などを参考にして、古墳時代の歴史の流れについて考察してみたいと思います。
ここで、超常現象はもとより大王のプロパガンダを多分に含んでいる可能性がある記紀の内容を無批判に議論の根底として捉えることは危険極まりありません(笑)。しかしながら、その存在を含めてすべてを完全否定するのも予断をもった見方であると考えます。批判的精神をもちながら、物語の変化との整合性を検証することはけっして不合理ではないと考えます。
そこで、あくまで検討のプロトタイプとして、各古墳の被葬者を、この時代の定説や記紀の物語に可能な限り整合するよう比定してみました(図9)。
図9 プロトタイプとしての被葬者の割り当て
以下、この比定の根拠について説明した上で、古墳方位の思想について論じてみたいと思います。
3世紀に存在した纏向遺跡で日本の広範囲の土器が発見されている事実や4方位を概ね把握していた事実から考えれば、纏向は全国ネットをもった先端都市であったことは否めません。纏向の祭祀場では、立春に三輪山の山頂から日出が観測されます(図10)。彼らは太陽の方位と聖なる山との関係を基に宗教インフラを配置していました。
また、明確な事実として、纏向は出雲から見て正確に立春の日出方位に位置します。逆に出雲は纏向から見て立秋の日入方位に位置します。(過去記事)。強い太陽信仰が存在した纏向はシャーマンの卑弥呼(日御子)を女王とする邪馬台国の首都であった可能性があると考えます。
図10 纏向の祭祀場で観測される立春の日出(StellaNavigatorによるAD200年の再現)
仮に纏向が邪馬台国の首都であるとすると、卑弥呼の墓は、死亡時期に建造されたホケノ山古墳の可能性が高いと考えられます。被葬者の死亡時が工期となる大規模土木工事である前方後円墳は、基本的に被葬者の生前に建造されたと考えられるからです。この場合に箸墓古墳は次の女王である台与の墓ということになります。
箸墓古墳の被葬者としてシャーマンの女性を比定したのは、記紀が、神(大物主)と交際する女性王族である倭迹迹日百襲姫を箸墓古墳の被葬者としているからです。記紀における大王(「天皇」という漢風諡号の確立は7世紀後半)の系図を図11に示します。
図11 記紀における大王の系図(孝昭天皇~応神天皇)
卑弥呼が過去に中国の皇帝に朝貢したとすれば、それは記紀を世に送り出した8世紀の天皇にとって不都合な事実であるので、卑弥呼も台与も記紀に登場しません。もしもこの系図の血縁関係が真であるとすれば、倭迹迹日百襲姫は台与のアバターということになります。
4世紀前半の崇神天皇と垂仁天皇に関する記紀の記事では、三輪山に鎮座する出雲の神である大物主や出雲出身の大田田根子や野見宿禰が主要な人物として登場します。この時代の大王は出雲の宗教を信じていた可能性が高いと考えます。
また、天照大神の扱いをめぐり、豊鍬入姫と倭姫という大王の女子が登場します。彼女たちは、卑弥呼と台与の後継となった太陽信仰のシャーマンであった可能性があります。この場合、彼女たちも前方後円墳に葬られたはずです。図8では箸墓以降の巨大古墳をこれらの大王とシャーマンに割り当てています。
いずれにしてもこの時代の信仰の対象は山の神と太陽の神であり、神意を聞くことができる女性シャーマンが重大な存在であった可能性は高いと考えます。
4世紀中頃、大王位は景行天皇から成務天皇へと継承され、大和古墳群で大規模な前方後円墳の建造は終息します。ここで注目したいのは、成務天皇が武内宿禰を大臣として国造を定めたという記紀の事績記事です。
4世紀中頃から西微北~北西方位の前方後円墳が畿内各地で同時多発的に建造され、その後に全国に拡がっていったのは、成務天皇が、同盟の証として、畿内の氏族および地方の豪族に対して同種の前方後円墳を建造することを許可したと推測することができます。すなわち、武内宿禰の子という設定になっている平群木菟(平郡氏)・葛城襲津彦(葛城氏)・紀角(紀氏)や有力氏族の武振熊(和邇氏)・物部氏などが、それぞれの勢力圏で同盟の証である前方後円墳を建造したと考えれば説明がつきます。
もちろん、300年生きた天皇の忠臣という設定になっている武内宿禰という人物の存在可能性はゼロですが、畿内の氏族および地方の豪族を取り仕切る有力な大臣が現実の世界に存在した可能性は十分に考えられます。あくまで、記紀に登場する善良なキャラクターは、8世紀の天皇の権威を高める上で好都合な存在、悪徳なキャラクターは不都合な存在という一貫した疑義をもつのが合理的です。
なお、西微北~北西方位の前方後円墳の建造は佐紀古墳群を除いてこの時代でほぼ終息します。このことは大和の大王が畿内全域を支配する連合王国の大王になるために必要なプロセスであったものと考えられます。
ちなみに、西微北~北西という方位に何の意味があるのかは特定できませんが、古墳時代初期から飛鳥時代前半にかけて、全国のメジャーな宗教インフラの多くで、都の中心軸や参道から本殿に至る方位がこの西微北~北北西を示す事実はこのことと関係するかもしれません。
例えば、出雲大社・纏向遺跡・宇佐神宮・気比神宮・石上神宮・宮崎神宮・法隆寺・四天王寺・豊浦宮がこれにあたります。また、葛城襲津彦と比定した巣山古墳だけは南南西の方位に向いています。この方位には、葛城氏にとっての聖なる山である葛城山(現在の金剛山)が位置します。
大王を中心とする連合国家となった倭国は、4世紀末に朝鮮半島に侵攻します。このとき、記紀に華々しく登場するのが、仲哀天皇の正妻で息長氏の血を引く神功皇后です。もちろん「三韓征伐」は現実の世界では成功していませんが、倭国が半島南部に進出したのは確かであり、大王の正妻がシャーマンとして戦術を占ったとしても不思議ではありません。
ここに、河内に最初に陵墓を建造した大王は仲哀天皇であるいうと記紀の記事があります。この記事が事実とすれば、津堂城山古墳が陵墓にあたります。この前方後円墳の建造時期は朝鮮半島への侵攻の直前にあたり、仲哀天皇が朝鮮出兵を前に急死したという記紀の記述とも整合します。
また、津堂城山古墳の被葬者が仲哀天皇であるとすれば、次代の大王である応神天皇の陵墓は、宮内庁比定の誉田御廟山古墳ではなく、津堂城山古墳の次に建造された大型古墳である仲ツ山古墳、さらに次代の大王である仁徳天皇の陵墓は宮内庁比定の大仙陵古墳ではなく、上石津ミサンザイとするのが蓋然的です(図12)。
図12 記紀における大王の系図(応神天皇~欽明天皇)
さらに、5世紀の倭の五王については、有力説である讃=履中天皇・珍=反正天皇・済=允恭天皇・興=安康天皇・武=雄略天皇を適用することができます。割り当てる前方後円墳は順に、誉田御廟山古墳・西陵古墳・大仙陵古墳・田出井山古墳・岡ミサンザイ古墳としました。
誉田御廟山古墳の被葬者を履中天皇としたのは、履中天皇の外祖父が当時権勢を誇った葛城襲津彦であることによります。実は、誉田御廟山古墳は、葛城氏にとっての聖なる山である葛城山(現在の金剛山)の方位を正確に向いているのです。逆にこのことからも、葛城氏の血を引いていない応神天皇と仁徳天皇が葛城山を遥拝する誉田御廟山古墳の被葬者ではないと考えることができます。
ここで留意する必要があるのが、仁徳天皇の男子である履中天皇・反正天皇・允恭天皇が続けて大王位に就いたのは、大王家最初の兄弟継承であるということです。その後、結果として大王位は、履中天皇系と允恭天皇系の男子で分け合うことになります。その陵墓も、履中天皇系が古市、允恭天皇系が百舌鳥を陵墓地としたと考えます。また、子女がいなかった反正天皇は、出生地の淡路島に近い西陵古墳に埋葬されたと考えました。
巨大古墳が建造された倭の五王の時代は、大王が最も強い権力をもっていた時代と考えられますが、記紀では必ずしもそのことが強調されてなく、事績も応神天皇や仁徳天皇と比較して淡白に書かれています。これは、8世紀の天皇にとって、中国に朝貢したという黒歴史をもつ倭の五王は不都合な存在であったからと考えられます。
さて、百舌鳥古墳群は2群の方位に分かれ、そのうち北北東方位を向く古墳群のパイオニアとなった乳岡古墳の被葬者は、地位は低いもののカリスマ性が高い人物であると先に推測しました。素直に考えれば、その人物こそ、日本武尊(正確には、日本武尊のモデルとなった王族)であると考えます。実は乳岡古墳の近くには、死後に白鳥になった日本武尊が最後に降り立ったとされる大鳥神社(和泉国一之宮)があります。
なお、雄略天皇を被葬者とすることが確実視されている岡ミサンザイ古墳は、允恭天皇系であるにもかかわらず古市古墳群に位置しますが、その方位は允恭天皇系と同じ北北東方位を向いています。
図13は、誉田御廟山古墳と大仙陵の方位線を描いたものです。
図13 誉田御廟山古墳と大仙陵の方位線
誉田御廟山古墳の方位が立秋日出に垂直で葛城山を向いているのに対し、大仙陵古墳の方位は夏至日入に垂直で古代から信仰対象とされていた男山と日枝山(現在の比叡山)を向いています。また、この2つの巨大古墳の真東には龍王山が位置しています。この図からもわかるように、すべては綿密に設計されているのです。
また、詳しくは説明しませんが、先述したように、馬見・古市・百舌鳥古墳群の南部には東西性の方位をもつ前方後円墳が位置しています。これらは大王の正室・側室の陵墓であると考えます。5世紀において、王族には一定のジェンダースキーマが存在していた可能性が考えられます。比定にあたっては、古市古墳群には履中天皇系の正室、百舌鳥古墳群には允恭天皇系の正室、そして馬見古墳群には葛城氏系の側室を割り当てました。
最後に、古墳時代末期である6世紀の今城塚古墳の方位について示したものが図14です。
図14 今城塚古墳の方位線
今城塚古墳の被葬者は継体天皇であることが確実視されています。継体天皇が大王位に就くことに反対する勢力が存在したため、継体天皇は長期間にわたって大和に入ることができず、木津川・宇治川・桂川の合流点付近に宮を置きました。結果として、継体天皇は、樟葉宮・筒城宮・弟国宮と遷都した後に大和に入ったのです。
ここに、今庄塚古墳は立春日出の方位を向いており、その先には古代から信仰対象とされている神南備山(甘南備山)と筒城宮があります。また、立秋日出方位には樟葉宮と男山があります。これを偶然とするのは蓋然的でないと考えます。
なお、記紀によれば、雄略天皇と継体天皇の間には、4人の大王(清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇)が存在するはずですが、雄略天皇の岡ミサンザイ古墳と継体天皇の今城塚古墳の間に建造された大型前方後円墳は見当たらず、岡ミサンザイ古墳と今城塚古墳の建造時間間隔もかなり短いといえます。素直に考えれば、これら4人の大王は、記紀による創作の可能性があります。
以上、3世紀から6世紀に建造された大型前方後円墳について、その主軸の方位に着目することにより、その配置の思想の変遷を大胆に考察しました。この考察の真実性については、将来の考古学的調査の結果を待たねばなりませんが、逐次検証を行う上でのプロトタイプの一つとして利用できるのではと考える次第です。
いずれにしても、私たちの祖先は、よくもまぁ、子孫の知的好奇心を強く刺激するよう、宗教インフラを配置したものと考える次第です(笑)。次は飛鳥時代の太陽信仰について検証する所存です。