世界遺産に指定されている北海道・北東北の縄文遺跡群の中でひときわミステリアスなのが、万座環状列石(最大径52m)と野中堂環状列石(最大径44m)という2つの環状列石で構成される大湯環状列石(推定年代:紀元前2000~1500年)です。ここで環状列石とは、円磨度が高い河原石を環状に配置した遺構であり、祭祀場や集団墓地として利用されていたと考えられています。
万座環状列石と野中堂環状列石の内部には、それぞれ「日時計状組石」と呼ばれる特徴的な組石が存在します。
2つの環状列石の中心点と2つの日時計状組石の中心点の4点はほぼ一直線上に並び、その4点通過直線の方位は、当地点の夏至の日没方位、および冬至の日出方位を示しているという言説が、縄文遺跡群世界遺産本部などによって、あたかも定説のように流布されています。
しかしながら、この説は明らかに科学的事実に反しています。本稿ではこの「定説」の誤りを指摘した上で、これとは異なる新説を展開したいと思います
まず、天文シミュレーションソフト『ステラナビゲータ』を使用して、当該地点におけるBC2000~1500年の夏至の日没および冬至の日出の方位を50年間隔で計算し、その平均値をGoogleマップの衛星画像上にプロットしました(図1)。
ちなみに、日没とは水平線上に太陽の最上部が完全に没する瞬間、日出とは水平線上に太陽の最上部が出現する瞬間のことを言います。山地形などで水平線を観察できない場合には、太陽の動きからその位置を推定することになります。
当該地点の場合も、太陽は山地形に沈みますが、当該地点の水平線付近で太陽が運行する角度は概ねπ/4(=45度)なので、縄文人でも日没および日出位置の概略的な推定は可能であったと考えられます。
図1からわかるように、4点通過直線の方位は、定説とは異なり、夏至の日没方位および冬至の日出方位と大きなズレがあります。ちなみにGoogleマップの衛星画像と国土地理院の地形図に描かれているベクトルデータの位置関係は正確に一致し、Google Mapは当該地点の平面図として十分な精度を有していると考えられます(図2)。
ここで、4点通過直線の方位が当該地点の夏至の日没方位および冬至の日出方位を示すという説は、考古学の研究者が作成した平面図(引用:『縄文時代の考古学』)に依拠するものでした(図3)。しかしながら、この平面図はGoogle Mapに描かれている遺跡の位置関係とは大きく異なるものです。
4点通過直線の方位が夏至の日没方位および冬至の日出方位と一致すれば、それはそれで学術的発見ですが、科学的事実を曲げることには何の意味もありません。いずれ誤りとわかることです。
ただし、大湯環状列石の幾何が夏至の日没および冬至の日出と全く関係していないとは限らない事実があります。それは、一方の日時計状組石を出発点とする2直線は、もう一方の環状列石を高精度で外接しているということです。一つの仮説として、この位置関係から夏至の日没及び冬至の日出を同定できるよう日時計状組石のレイアウトを決定した可能性があります。
さて、そうであるのならば、4点通過直線の方位は何を意味しているのでしょうか。ここにひとつ有力な事実があります。それは、4点通過直線の方位が立秋の日没方位とほぼ一致するということです。ここで立秋とは、夏至と秋分の中間点にあたり、21世紀では8月7日ごろを指します。
図4は、当該地点におけるBC2000~1500年の立秋の日没の方位を50年間隔で計算し、その平均値をGoogleマップの衛星画像上にプロットしたものです。
自分でも目を疑いましたが、当該地点における立秋の日没方位を示す方位線は4点通過直線と正確に一致しています。
ちなみに、立秋の日没方位については、太陽の黄径が135度に最接近する日没位置から、立春の日出方位は太陽の黄径が315度に最接近する日没位置から算定しました。以上の分析の根拠としたデータを表1に示します。
別記事「古代出雲と太陽信仰(後編)」で詳しく示しましたが、古代出雲や纏向(大和)では、主要な宗教インフラが立春・立秋の日没・日出方位に配列しています。このことから、古代の人々がこれらの季節を特別に意識していた可能性が伺えます。そしてその理由として考えられるのが、日本において、立秋が年間で最も暑い季節であり、立春が年間で最も寒い季節であるということです。
このことは、大湯環状列石が位置する秋田県鹿角市の場合も例外ではありません。現在の鹿角市における7月および8月の気温の平年値(気象庁)の推移を図5に示します。
図には、立秋に加えて、4点通過直線の延長上の山地形に太陽が沈む日を「日沈観測日」として示しています。この図を見ると、日沈観測日の8月2日は、当該地域が年最高気温に概ね到達する日であり、立秋の8月7日は、気温の低下が概ね始まる日です。つまり、大湯環状列石によって太陽の運行を観察することで、当該地域が最も暑くなる季節を把握することができるのです。
当該地点から観察される太陽の挙動を図6に示すとともに、この図の地形が実際の地形を反映していることを示す写真を図7に示します。
地球温暖化の影響があるため、大湯環状列石が形成された頃の縄文時代と現在では、気温の絶対値は異なります。しかしながら、気温の大局的変動は、太陽の運行と地域の比熱に支配されるので、縄文時代においても現在と同様の季節変動を示していたものと推察されます。
ちなみに、大湯環状列石では、夏至の日没を観測するイベントが毎年開催されているとのことですが、残念ながらその日には4点通過直線の方位に太陽は沈まないはずです。この現象を現地で観察できるのは、夏至から約1カ月半過ぎた立秋の約5日前であり、縄文人はそのことを知っていたはずです。
なお、縄文後期の寒冷期に人口が大幅に減少したことが知られている縄文人の生活にとって、最大のリスクは食物の調達が困難な冬の飢餓であったと推察されます。
万物に魂が宿るとする精霊信仰(アニミズム)の世界観をもっていたとされる縄文人は、大地に光と暖かさと恵みを与えてくれる太陽、特に立秋の「最もパワフルな太陽」に対して、最上級の畏敬の念をもっていた可能性が高いと考えられます。彼らがその神聖な太陽を遥拝する機能を有する環状列石という集団霊場(墓地)を築いて祭祀を行っていたことは想像に難くありません。
一方、現在の鹿角市における1月および2月の気温の平年値(気象庁)および最大積雪深の推移を図8に示します。
図8には、立春に加えて、4点通過直線の延長上の山地形から太陽が昇る日を「日昇観測日」として示しています。この図を見ると、立春の2月4日は、年最低気温からの上昇が概ね始まる日です。また、日昇観測日の2月12日は、当該地域の積雪深が概ね最大値に到達する日です。
縄文人は、火を使ってしのげる寒さよりも、行動を制限される積雪を恐れていた可能性があり、その意味で、積雪深が最大となる日を把握できる4点通過直線は冬季にも実用性があったものと考えられます(図9)。
以上、世界文化遺産である大湯環状列石の中心線(4点通過直線)が指し示す方位は、定説の「夏至の日没方位」ではなく「立秋の日没方位」であることを示した上で、縄文人がなぜその方位に着目したのかについて考察を行いました。
いつかは真実が判明することなので、学術界は俗説である現在の定説を可能な限り早期に否定するのが妥当です。また、夏至に日没を観察するイベントも立秋に行なうよう変更した方が参加者の利益になると考えます。
そもそも、大湯環状列石が、把握が容易ではない「立秋の日没方位」を正確に指し示しているという事実は、把握が容易な「夏至の日没方位」を指し示しているという俗説よりも数段価値が高いと言えます。
要するに、後期の縄文人は、過去の経験の蓄積を基に、最も暑い季節が立秋であり、最も寒い季節が立春であることを帰納的に把握していて、日没方位および日出方位でその時期を特定するよう環状列石を配置したものと考えられます。縄文人の文化レベルは、現代人が考えていたものよりも数段高かったのです。
大湯環状列石に見られる立秋・立春を特別な日とする原始的な太陽信仰は、その後の古代日本にも引き継がれています。図10は西暦200年、纏向の祭祀場(辻地区土坑)から眺望する立春の太陽です。この日の太陽は神の山である三輪山(=御・和・山:大王の和国の山)から姿を現します。
この地点は、意図的に設計された太陽信仰の祭祀場であったと考えるのが蓋然的です。このような時空が偶然の産物とは考えにくいからです。
当時の人たちはこの場所から毎年2回(立冬と立春)このような光景を遥拝できることを知っていたはずですが、残念なことに文字がなかったため、後世の人にこの確かな文化を伝えることはできなかったのです。
遠い昔に日本人が忘れてしまった古代の文化、今後も解き明かしていきたいと思います。
【関連記事】
・「古代出雲と太陽信仰(前編)」
・「古代出雲と太陽信仰(後編)」