――公衆衛生における「予防原則」はなぜ適用されないのか
序章 なぜ食中毒と薪ストーブ煙害を比較するのか
本稿では、薪ストーブ使用に伴う住宅地での煙害問題を、公衆衛生行政が日常的に対応している「食中毒」と比較することで、現在の行政対応に内在する論理的矛盾を検討します。
この比較は感情的な比喩ではありません。どちらも「環境中の因子が人の健康に影響を与える」という点で、同一の公衆衛生リスクに分類される事象です。
食中毒は、患者が一人であっても保健所が即時介入します。一方、薪ストーブ煙害は、呼吸器症状や生活障害が生じていても「苦情件数が少ない」という意味不明な理由で全く対応されません。
この差はどこから生じるのでしょうか。

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第1章 食中毒対応における公衆衛生の基本原則
食中毒対応の根拠は、個別の重症度ではなく「リスクの性質」にあります。
厚生労働省は、食中毒を「患者数の多寡にかかわらず、再発・拡大の可能性がある健康被害」と定義し、速やかな調査と原因究明を求めています。
これは、**予防原則(precautionary principle)**に基づく対応です。
予防原則とは、因果関係が完全に証明されていなくても、合理的な健康リスクが示唆される場合には、被害拡大を防ぐ行動を優先する考え方です。
この原則は、世界保健機関(WHO)や欧州連合(EU)の公衆衛生政策でも明確に採用されています。
第2章 薪ストーブ煙害の健康影響に関する科学的知見
薪ストーブから排出される煙には、PM2.5、一酸化炭素、多環芳香族炭化水素(PAHs)などが含まれます。
これらは、呼吸器疾患、循環器疾患、さらには死亡率上昇との関連が、多数の疫学研究で示されています。
特にPM2.5は、安全な閾値が存在しないとされ、低濃度であっても健康影響が認められています。
屋外大気汚染による健康被害は、世界的に主要な死亡要因の一つと位置づけられています。
第3章 両者に共通するリスク構造
食中毒と薪ストーブ煙害には、以下の共通点があります。
- 原因物質が感覚的に捉えにくい
- 個人差が大きく、症状が多様
- 曝露が反復・継続する可能性がある
- 被害が過小評価されやすい
食中毒では、これらの性質を理由に「早期介入」が正当化されています。
一方、薪ストーブ煙害では、同じ性質を持ちながら「無視」が選択されています。
この違いは、科学的合理性では説明できません。
第4章 「苦情件数」という指標の不適切性
行政が薪ストーブ煙害対応を見送る際に用いる「苦情件数が少ない」という論拠は、公衆衛生の観点から大きな問題があります。
健康被害の訴えは、
- 被害者が原因に気づいていない
- 声を上げること自体が負担
- 近隣関係への配慮から沈黙する
といった理由で、実態より少なく表出することが知られています。
食中毒では、この「申告バイアス」を前提に制度設計がなされています。
薪ストーブ煙害だけが例外である合理的理由は見当たりません。
第5章 観測の必要性と行政の役割
食中毒対応において、保健所はまず事実確認と検体採取を行います。
同様に、薪ストーブ煙害では環境測定が初動として不可欠です。
観測は、即時の解決を保証するものではありません。
しかし、
- 原因の切り分け
- 冤罪の防止
- 政策判断の基礎資料
として不可欠な行為です。
行政府が観測を行わずに「判断できない」とすることは、科学的手続きを放棄することに等しいと言えます。
第6章 国内自治体における実際の答弁と対応の乖離
薪ストーブ煙害に関する自治体の対応を確認すると、多くの場合、次のような答弁が見られます。
「苦情件数が少ないため、現時点では調査の必要性は認められない」
「個人間の問題であり、行政が介入する案件ではない」
「法令に基づく基準超過が確認されていない」
これらの答弁は、一見すると慎重で中立的に見えます。しかし、食中毒や悪臭、公害に対する従来の行政対応と比較すると、著しい不整合が存在します。
例えば、食中毒では原因食品が特定されていない段階でも、聞き取り調査や立入調査が実施されます。
また、悪臭防止法に基づく苦情対応では、数件の申告であっても現地確認が行われることが一般的です。
薪ストーブ煙害のみが、
「件数が少ない」
「証拠がない」
という理由で調査対象外とされる合理的根拠は、制度上明確ではありません。
このことは、行政が科学的リスクの有無ではなく、「扱いやすさ」によって対応の有無を決めている可能性を示唆します。
第7章 国内研究にみる薪ストーブ由来PM2.5の位置づけ
薪ストーブ煙害について、「日本では科学的知見が不足している」との指摘がなされることがあります。
しかし、これもまた正確ではありません。
国内でも、木質バイオマス燃焼がPM2.5の発生源であることは、環境省や研究機関の調査で繰り返し示されています。
特に冬季における局地的なPM2.5上昇と、住宅用燃焼の関連は複数の研究で指摘されています。
また、PM2.5の健康影響については、国内外で知見が一致しており、「屋外由来であっても室内に侵入し、健康影響を及ぼす」ことが確認されています。
重要なのは、薪ストーブ煙害が「新しい問題」ではなく、既存の大気汚染問題の一部であるという点です。
未知だから対応できないのではなく、既知であるがゆえに対応が求められる領域に属しています。
第8章 「財産権」を理由とする不作為の法的問題点
薪ストーブ煙害に対し、行政が最終的に持ち出す論拠として、「財産権の保護」があります。
すなわち、薪ストーブは個人の所有物であり、使用制限は困難である、という荒唐無稽かつ意味不明な主張です。
しかし、日本国憲法第29条は、財産権が公共の福祉に適合するように制約され得ることを明記しています。
実際、建築基準法、消防法、悪臭防止法など、多くの法令が財産権に制限を加えています。
食中毒の原因となる飲食店設備も、事業者の財産ですが、営業停止や改善命令が発せられます。
これは、健康被害の防止が財産権より優先されるという、社会的合意に基づくものです。
薪ストーブ煙害において財産権のみを理由に調査や介入を拒むことは、法理として一貫性を欠きます。
問題は「規制できない」ことではなく、「規制する意思を持たない」ことの言い訳にあると解釈する余地があります。
第9章 自治体答弁にみる「不作為」の定型パターン
薪ストーブ煙害に関する自治体の公式答弁を整理すると、いくつかの共通した定型表現が確認できます。
代表的なものとして、
「苦情件数が一桁であるため、調査対象とはしていない」
「客観的データがないため、行政として判断できない」
「近隣住民間のトラブルであり、民事的解決が望ましい」
といった説明が挙げられます。
これらの答弁は一見合理的に見えますが、注意すべき点があります。
これらはすべて、「調査を実施しない理由」であって、「問題が存在しない理由」ではありません。
つまり、
調査しない → データがない → 判断できない → 何もしない
という狂気じみた循環構造が成立しています。
この構造は、行政が中立を保っているのではなく、不作為を制度化している状態と解釈することが可能です。
少なくとも、科学的な不確実性を理由に調査自体を拒否する姿勢は、予防原則とは整合しません。
第10章 環境基本法と予防原則との整合性
日本の環境政策の基本理念は、環境基本法に明記されています。
同法では、環境への負荷が人の健康や生活環境に影響を及ぼすおそれがある場合、その発生の未然防止が図られるべきであるとされています。
重要なのは、「被害が確定してから対応する」とは書かれていない点です。
むしろ、影響の可能性がある段階での対応、すなわち予防的対応が求められています。
PM2.5の健康影響については、すでに国内外で十分な科学的知見が蓄積されています。
また、木質バイオマス燃焼がPM2.5の発生源であることも、否定されていません。
それにもかかわらず、
「確定的因果関係が示されていない」
「測定データが存在しない」
という理由で行政対応を行わないことは、環境基本法の理念と緊張関係にあります。
ここで必要なのは、規制か否かの議論以前に、事実確認としての観測です。
観測は規制ではなく、行政の責務の出発点に過ぎません。
第11章 行政法における「不作為」と健康被害の位置づけ
行政法において、「不作為」とは、行政が法令上期待される行為を行わないことを指します。
これは、積極的な違法行為だけでなく、何もしないことによって生じる問題も含みます。
薪ストーブ煙害の事例において、
- 健康被害の訴えが存在する
- 既知の有害物質(PM2.5)が関与している可能性がある
- 測定手段が技術的に利用可能である
という条件が揃っているにもかかわらず、
行政が一切の観測や現地確認を行わない場合、それは単なる慎重姿勢ではなく、意図的な不作為と評価されます。
特に、呼吸器症状や生活への支障が継続的に報告されている状況では、「苦情件数が少ない」という理由のみで対応を見送る合理性はありません。
不作為は目に見えにくく、責任の所在も曖昧になりがちです。
しかし、後年になって記録が検証されたとき、「なぜ何もしなかったのか」という問いは必ず発生します。
そのとき、観測記録の不存在は、問題の不存在を意味しません。
それは単に、「確認しなかった」という事実を示すだけです。
終章 なぜこの問題は放置されるのか
本稿で示した比較から明らかなのは、薪ストーブ煙害が食中毒より軽微だから放置されているのではない、という点です。
むしろ、生活環境由来の慢性曝露という扱いにくさが、行政の対応を遅らせている可能性が示唆されます。
しかし、公衆衛生の原則は「扱いにくいから無視してよい」ものではありません。
食中毒で当然とされている対応を、同じ健康被害に対して適用しないことは、制度の整合性を欠きます。
観測と記録は、感情ではなく事実を社会に残す行為です。
それは、今すぐの解決に至らなくとも、将来の判断を誤らせないための最低条件です。
観測は、規制そのものではありません。
観測は、事実を知るための最低限の行為です。
それすら行われない状況は、行政が問題の不存在を前提に行動していることを意味します。
しかし、健康被害の訴えが存在する以上、「存在しないと仮定する」こと自体が非科学的です。
観測を行わないという選択は、中立ではありません。
それは現状維持、すなわち被害が継続する側に立つ判断です。
編集部より:この記事は青山翠氏のブログ「湘南に、きれいな青空を返して!」2025年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「湘南に、きれいな青空を返して!」をご覧ください。






