1945年8月、米国は広島と長崎に原爆を投下した。
日本人にとって、忘れることのできない歴史の一コマである。
その一方で、原爆投下が当時どのように報じられ、どのような言葉で世界に伝えられたのかについて、私たちはどれほど知っているだろうか。
1月6日、米公共放送PBSがドキュメンタリー映画「Bombshell(ボムシェル=爆弾)」を放送する。米政府が原爆投下をめぐり、人的被害をどのように説明し、いかに情報を管理しようとしたのかを、当時のジャーナリストたちの行動と対比させながら描き出す作品である。
国家の安全保障のために政府の声をそのまま伝えるべきなのか。それとも現実を直視し、民主主義社会の原則に基づいて事実の記録と伝達を最優先するのか。原爆という新兵器を前に、米国のジャーナリストたちは揺れ動いた。
「ボムシェル」は、当時の報道のあり方を振り返りながら、真実を伝えることの重みを問いかける。
マンハッタン計画から原爆投下まで
原爆投下に至るまでの国際社会の状況を振り返ってみよう。
1939年9月に勃発した第2次世界大戦は、米国を中心とする連合国(英国、フランス、ソ連、中国など)と、ドイツを筆頭とする枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)が世界各地で戦った大戦である。空爆や総力戦の拡大により、未曽有の人的・物的被害をもたらした。
これに先立つ1938年、ドイツの科学者オットー・ハーンらがウランの核分裂を発見し、莫大なエネルギー利用の可能性が示された。
ナチス・ドイツが原子爆弾を開発する恐れを抱いた亡命科学者たちの警告――アインシュタインが名を連ねた書簡など――を受け、米国は1942年、極秘の「マンハッタン計画」を発足させる。陸軍、科学者、産業界が総動員され、1945年7月、ニューメキシコ州で人類初の核実験(トリニティ実験)に成功した。
計画の責任者となったのが、米陸軍准将レズリー・グローブスである。計画の存在や詳細が敵国に知られないよう、グローブスは徹底した情報管理に腐心した。
その一環として、ニューヨーク・タイムズ紙の科学記者ウィリアム・ローレンスが政府側の情報提供の枠組みに組み込まれていく。ローレンスは、政府の公式発表に沿った立場で原爆を報じることになる。
ローレンスはトリニティ実験を取材し、1945年8月9日にはB29爆撃機に随伴した観測機から、長崎への原爆投下を目撃した。当時、原爆投下を空中から取材した唯一の記者である。

トリニティ実験後のプレスツアーにて。1945年9月。ローレンス(左)とグローブス(クレジット:U.S. Army Corps of Engineers)
ローレンスは原爆の開発と使用について、最新かつ独占的な情報に接する立場にあったが、その代償として、結果的に原爆被害の矮小化に加担することになった。
その背景には、戦時下において専門知を持つ記者が国家の意思決定と一体化していく構造があった。それは個人の善悪というよりも、戦時下の報道が置かれた制度的制約の問題でもあった。
1945年8月、広島と長崎に原爆が投下され、20万人を超える人々が命を落とした。さらに、数え切れないほどの人々が負傷し、放射線障害や後遺症に長年苦しむことになる。
間もなく戦争は終結したが、米国民の多くは原爆被害の実態を十分に知らされないままでいた。
ハーシーが広島の被爆者の声を伝える
第2次大戦後、戦勝の喜びとともに日常生活を取り戻しつつあった米国社会に衝撃を与えたのが、米誌「ニューヨーカー」に掲載されたジョン・ハーシーの記事「ヒロシマ」である。

中国を取材中のハーシー(クレジット:Dmitri KesselThe LIFE Picture CollectionShutterstock)
1946年5月、ハーシーは広島を訪れ、現地の人々に取材した。7000語の原稿にまとめる予定だったが、出来上がった分量は3万語を超えた。
「ニューヨーカー」は通常は娯楽系の軽いタッチの読み物を提供するが、ハーシーの記事は6人の被爆者の体験談をリアルに描いた重厚な内容だった。
当時の経営陣は「全文掲載するに値する」と判断し、1946年8月31日号の1冊全体をハーシーの記事にあてた。店頭に積み上げられた「ニューヨーカー」はあっという間に売り切れ、被爆者の体験を通して原爆の恐怖とその影響が、初めて米国民に広く伝わることになった。
米政府の反撃
第1次大戦では、ドイツ軍が毒ガスを使用した。マスタードガスは皮膚や粘膜を侵し、失明や重度の火傷を引き起こす非人道的兵器として強く記憶されていた。
米政府は、原爆が同様に「非人道的な兵器」として認識されることを恐れた。ハーシーの報道が広がるなか、政府は原爆使用を正当化するための反撃に出る。
1947年2月、雑誌「ハーパーズ・マガジン」に論文「原爆使用の決定(The Decision to Use the Atomic Bomb)」が掲載された。執筆の中心となったのは、当時すでに陸軍長官を退任していたヘンリー・スティムソンである。
論文では、日本本土への上陸作戦を実行すれば、米軍だけで50万人以上の死傷者が出ると当時推定されていたことが説明された。また、スティムソンは「日本は軍部が徹底抗戦を主張し、降伏の兆しが見られなかった」として、原爆投下は軍事的・戦略的に不可避だったと主張した。こうした記述は、あくまで当時の米政府関係者の公式見解を反映したものである。
映画による正当化
ほぼ同じ時期の1947年2月下旬、映画「始まりか終わりか(The Beginning or the End)」(MGM)が公開された。
原爆投下からわずか1年半ほどという異例の早さで制作・公開されたこの作品には、米軍やトルーマン政権が深く関与し、脚本修正にも影響を及ぼした。科学者たちの苦悩や慎重な意思決定が強調され、原爆使用は「やむを得ない選択」として描かれた。
被爆者の惨状はほとんど描かれず、軍事的必要性と「多くの命を救った」という論理が前面に押し出された。原爆投下への批判に対抗し、世論を形成しようとする意図は明確だった。
正当化はどのように作られたのか
ドキュメンタリー「ボムシェル」の中で、歴史家ヴィンセント・イントンディはこう語る。「米国民は映画の主張を鵜呑みにした。『私たちが信頼する政府が原爆は必要だったと言ったのだ』と受け止め、『原爆投下は正しかった』と信じた」。
一方、歴史家アレックス・ウェラースタインは、戦後に広まった原爆使用の正当化の説明は、多くの点で真実ではないと指摘する。彼によれば、原爆使用の決定は慎重な道徳的熟議の結果ではなかった。
「爆弾を使うかどうかについて、事前に深い熟慮はなかった。日本の民間人犠牲についての深い懸念も見られない。戦時の計画は『爆撃と日本本土侵攻』であり、二者択一ではなかった」。
さらにウェラースタインは、原爆の目的そのものについても問い直す。「爆弾は戦争を速やかに終わらせるために使われたのではない。ソビエト連邦を牽制するために使われたのだ」。
彼は、原爆を「冷戦の最初の一斉射撃」と位置づける。戦後の国際秩序を見据えた力の誇示という側面を持っていた可能性がある、と。
80年後の今
80年前の原爆投下は、核時代の幕開けとなった。私たちは今、ロシアによる核恫喝や核抑止をめぐる、不安定な世界に生きている。原爆投下の決定は、今日まで長く尾を引く影響を及ぼしてきた。
「ボムシェル」は、原爆投下をめぐる歴史認識にとどまらず、報道と権力の関係という現在進行形の問題をも照らし出す作品だ。日本での上映会の開催が望まれる。
筆者は昨年秋、ウィーンで開かれた「国際新聞編集者協会(IPI)」の年次大会で本作を鑑賞した。その後で、脚本も務めたベン・ローターマン監督にインタビューした。
次回は、制作の背景や問題意識について監督自身の言葉を通して紹介する。
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2026年1月10日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。







