
私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「敏の本義」ということで次のように述べておられます――自分の人生を美しくするために、仕事のために、友人のために、世の中のために、できるだけ気をつけよう、役にたとう、まめにつくそうと心身を働かすことが敏の本義である。ひらたくいえば、いつも怠りをしないでいつもきびきびしている。その代わり世間のくだらんことにはずいぶんと怠けてもよろしい。
上記「世間のくだらんこと」とは、枝葉末節のことであります。人間、何ゆえ非本質的な下らん事柄に拘ったりするのかと言えば、それは一つに、負けず嫌いといった自分の性格あるいは自分の小欲に克てないからでしょう。相対比較の世界、即ち自分と人とを比べる世界に常に生きている人というのは、馬鹿馬鹿しい無価値なことに大変神経をすり減らしています。それは、「あの人は幸せ/私は不幸」「あの人は美しい/私はブス」「あの人は金持ち/私は貧乏」、といった具合にです。
私が私淑するもう一人の明治の知の巨人・森信三先生も言われる通り、あらゆる不幸は相対観から出発します。故に私は当ブログ「北尾吉孝日記」で幾度となく、「相対観から解脱せよ」と指摘し続けているわけです。昔から「破(わ)れ鍋に綴(と)じ蓋…どんな人にも、それにふさわしい伴侶があることのたとえ。また、両者が似通った者どうしであることのたとえ」と言いますが、「蓼(たで)食う虫も好き好(ず)き…タデの辛い葉を食う虫もあるように、人の好みはさまざまであるということ」ですから、そういう世の中だと思うことです。
「死生命あり、富貴天に在り」(『論語』顔淵第十二の五)――天道はある意味非情かもしれませんが、生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤であります。何事によらず、天命として受け入れるべきを受け入れない人間というのは、枝葉末節に執着し続けて段々と駄目になって行くものです。
「我れ三人行えば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択(えら)びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む」「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自らを省みる」(『論語』述而第七の二十一/里仁第四の十七)――「善き者」からも「善からざる者」からも、「賢」からも「不賢」からも学ぶ姿勢が身に付いている人というのは、自分が成長することに懸命で相対評価に関わっている余裕などありません。結果として、そういう人が最終的には力を付け、「あいつは人物だ」と周りからも評価をされるのです。大切なのは常に自分自身を謙虚に省み、人として自分自身を向上させることです。
我々は小欲に克ち相対観から解脱して、先ずは敏に本質を掴まねばなりません。そして後その本質に対して、動きも敏にして行かねばなりません。物事の本質を見極めるは、一朝一夕には出来ません。我々は枝葉末節のことかどうかを日々的確に判断し、物事の根本は何かというふうに、常日頃より考え方のトレーニングをし続けなければなりません。安岡先生の言葉を借りて言えば、一現象において「思考の三原則…枝葉末節ではなく根本を見る/中長期的な視点を持つ/多面的に見る」に拠り物事を捉えるべく自問自答し続けて、きちっとした思考習慣を自分自身のものにして行くということです。
最後に、拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)の「プロローグ」より、嘗て「アジアの巨人」として世界中から高く評価され自国を繁栄に導いた指導者、台湾の李登輝元総統の次の言を御紹介しておきます――大事なのは「信念」であり、自らに対する「矜持:きょうじ…確かな自信があっての誇り」なのだ(中略)。そうした信念や矜持をもつには精神的修養が重要で、それが最終的に、物事の本質を見抜く洞察力や大局観につながるのだ。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2026年1月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。






