「自律」という希望:萎縮しない文化と表現のために

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前回、表現の自由をめぐる構図が「国家vs市民」から「表現の自由同士の対立」へと変化していることを論じた。

表現の自由の敵は誰か:構図が変わった時代に考える
憲法学者・志田陽子氏と情報法学者・成原慧氏の対談を読んで、考え込んでしまった。表現の自由をめぐる構図が、根本から変わっているという指摘である。『現代思想 2025年5月号 特集=「表現の自由」を考える』(青土社)かつて表現の自由の「敵」は明...

では、この新しい状況に対して、私たちはどのような態度をとればよいのか。志田陽子氏が対談で繰り返し強調しているのが「自律」という概念である。

現代思想 2025年5月号 特集=「表現の自由」を考える』(青土社)

ミイラの展示について、志田氏は興味深い例を挙げている。従来、博物館はエジプトやチベットのミイラを知的好奇心の対象物として、尊厳について深く考えることなく展示してきた。ところが近年、自分たちの祖先の遺体をそのように扱われることへの異議申し立てが、現地の人々からなされるようになった。

これは多文化社会がもたらした「気づき」だと志田氏は言う。そして重要なのは、この配慮が法律で強制されたものではないということだ。博物館法にミイラの尊厳について定めた条文があるわけではない。学芸員たちが自ら、社会の変化に応じて期待されるレベルを上げていこうとしている。これが「自律としての自由」である。

筆者がこの議論に強く共感するのは、言葉の扱いにも同じことが言えるからだ。たとえば放送禁止用語。ある言葉を機械的に禁止することと、文脈を考えて自ら使い方を判断することは、まったく違う。前者は思考停止であり、後者は自律である。

「傷つく人がいるからやめよう」だけでは表現は止まってしまう。しかし「傷つく人のことなど知らない」では社会は成り立たない。その間で、表現者自身がリテラシーを上げていく。それが志田氏の言う「自律」であり、表現の可能性を狭めるのではなく、むしろ厚みを増すものだという。

対照的に、志田氏が厳しく批判しているのが行政の「萎縮」である。

「このような作品は必ずしも国民全てに受け入れられるものではない」という理由で、支援を見送る行政担当者がいるという。志田氏は一刀両断する。どんな芸術作品だって嫌いな人は必ずいる。全員に受け入れられなければ支援できないという基準を立てれば、何も支援できなくなる、と。

これは要するに「苦情を一件でも受けたくない」という萎縮だ。明確な苦情を寄せるのは一部の人であり、その背後には「いいんじゃない?」「興味がないからお任せ」といったサイレントな人々がいる。声の大きい一部に過剰に歩み寄ることは、むしろ政治的中立性を踏み外すことになる。

この問題は、公共施設での展示中止や、自治体の文化事業の縮小といった形で、全国各地で起きている。一部の抗議を受けて企画が中止になる。次からは「抗議が来そうなもの」を最初から避けるようになる。こうして文化行政は少しずつ痩せ細っていく。

志田氏が指摘するように、作品を評価して展示を決めた専門家の判断が、外部からの圧力で覆されることの問題は大きい。批判を受けて自ら考えを改めることと、圧力に屈して撤回することは本質的に異なる。後者が常態化すれば、専門家の「自律」は成り立たなくなる。

こうした圧力による表現の抑圧は、もちろん今に始まったことではない。ヨーロッパでは、かつての全体主義が芸術を弾圧・利用した歴史への反省から、芸術の自由を守る気概が強いという。芸術を為政者の権力誇示の道具にしてはいけないという認識が共有されている。

翻って現代のキャンセルカルチャーはどうか。志田氏は冷静な距離を取っている。ある表現をけしからんと批判すること自体は自由だ。しかし「回避できる手段がある限り、撤回させるレベルの力をかけるという権利は、批判者側にはない」と言い切る。

気に入らない人を社会的に立ち行かなくさせてやろうという意図でなされるなら、それは「単なる暴力」である。全体主義が国家の力で芸術を潰したように、キャンセルカルチャーは群衆の力で表現者を潰しにかかる。手段は違えど、表現の自律を奪うという点では同根だ。日本でも、こうした視点からの議論がもっと必要ではないか。

最後に志田氏が強調するのは、「法の支配は人が支える」という原則だ。法律や条約が作られても、それを実践の場面で参照する人がいなければ意味がない。人がいて初めて法は生命力を持つ。

筆者自身、22冊の本を書いてくる中で、「自律」と「萎縮」の境界に立ったことがある。ある本で、書くべきだと確信している内容に対して、「これは読者の反発を招くのではないか」と編集段階で声が上がった。

そのとき、反発を恐れて削るのは萎縮だ。しかし、ただ突っ張って原稿を通すのとも違う。批判を受ける覚悟を持った上で、なぜこの表現が必要なのかを自分の中で問い直す。その過程こそが「自律」だった。

結局、「自律」とは一人ひとりの覚悟の問題なのだと思う。法律で守ってもらうのを待つのではなく、自ら判断し、自ら責任を取る。圧力に屈するのでもなく、無神経に突き進むのでもなく、社会との関係を考えながら表現を続けていく。

それは孤独な作業かもしれない。だが志田氏の言葉を借りれば、「窮屈になる」のではなく「表現の厚みを増す」道なのだ。萎縮ではなく、自律。その違いを、私たちは忘れてはならない。

尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)

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