車の運転免許を取得すれば自動車を操ることができます。これは試験に合格したことで免許をもらっているからです。ところがよく聞くのが「ペーパードライバー」。免許は20年前にとって更新し続けているから優良運転者の証であるゴールド免許だけど実際には全く運転できないという人がいます。
私は19歳で宅建を取り、ゼネコンに勤めている時は開発本部勤務で本社の宅建主任者の登録者でした。ではあの時、私は不動産屋がやるようなペーパーワークや不動産実務ができたかと言えば否であります。会社は大きな開発案件絡みばかりでしたから個別の不動産取引はやらなかったのです。餅屋は餅屋と言いますが、いくら免許があってもどのように使うか次第で能力の発揮具合は全然変わってきます。
免許を持っているから能力がある、ということはありません。それぞれの専門分野でどこまで深堀をしたかによって習得するノウハウや技術、知識、経験値は変わってきます。この分野では野中郁次郎氏が唱えた暗黙知が知られていますが、もともとの発想はマイケル ポランニーという学者が1950年代に提唱した発想で野中氏はそれをSECIモデルとして形式知と暗黙知に分けてより実践に近い形で唱えた理論であります。
例えば寿司を握る修業は10年いるか、という質問に対し、堀江貴文氏はかつて無意味と断じました。確かに寿司を握るだけなら数日で形になるのかもしれません。私がかつてシアトルで日本食レストランの面倒を見ていた時は機械でシャリがポコポコできていましたので人手すらいらない状態でした。しかし、機械が作ったシャリとベテランさんが握ったシャリは子供でも分かるほど違います。また寿司屋によってそのシャリは大きく異なります。それぞれの寿司屋が経験値に基づき、こだわりぬいたベストな状態を提供し、一定数の顧客がファンとして大将の寿司に舌鼓を打つわけです。これは寿司屋が取得した暗黙知に対してそれを評価する顧客との相性とも言えます。
形式知と暗黙知の話については難しくなるので今日はしません。ただ言葉の意味が分からないといけないので書き出しておきます。
形式知:客観的でデータや文章、図表、数式などで論理的に展開されている知識
暗黙知:個人の経験や勘、コツなどに基づき個人や特定組織にのみ存在する知識
形式知は学校や免許取得のための勉強で習得するものですが、暗黙知をどう取得し、それを真の経験値として取得、体得できているのか、という点に私は疑問を持っています。
私どもは介護事業をするのに多くの日本の看護師経験者を採用しています。しかし、面白いことに見事に能力にムラがあるのです。できる経験者とそうではない経験者というわけです。もちろん、個人能力差はあります。ただ、概していえるのは海外で将来芽が出るセンスがある人材は1-2割しかいないという点です。芽が出る人材とは日本にいた時から業務を常に考え、なぜという質問を繰り返しながら仕事をしてきたと思うのです。事実、採用後しばらくたって履歴書を見返すとなるほど、出来る人は出来るなりのキャリアを積んでいる傾向が見られます。
ところが大多数の看護師さんは病院のやり方、ドクターのやり方、婦長のやり方、先輩のやり方を踏襲するため、その病院独自のやり方を覚えるだけでほとんど機械化されているのです。もちろん、看護においていくら国家試験を受け、形式知が備わっているとしても個性丸出しでは困ります。ただ、そういうことではなく、日本はヒエラルキーという社会の中で若い人がモノを言えない社会が存在する点に着目したいと思うのです。これが若い人の能力の芽を摘んでいるのではないでしょうか?
例えばカナダではドクターとナースの関係はそこまで差があるわけではなく、むしろ双方が専門家として尊敬しあい、プロフェッショナルな立場を貫くというスタンスです。同様に弁護士とパラリーガル(弁護士秘書とも言いますが、実際は極めて高いレベルの法律図書の扱いをする人です。)の関係も同じです。私の顧問弁護士が「自分のパラリーガルが休暇でいないから自分でやらねばならないから時間がかかる」ということはよくあります。
つまり日本では業務をピラミッド状で評価し、上下関係を明白にし、決定者がいて、あとは「御意!」を言わせる独特の世界があるのです。これが個人の経験値取得、つまり、野中先生に言わせれば暗黙知習得につながらないケースがあるとみています。

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例えば寿司屋で10年修行して一人前になり、その5年後、独立したとします。その彼の握る寿司は間違いなく、師匠のやり方を踏襲しており、基本的には他者の握る寿司に違和感を感じるはずです。これが日本で育まれたおらが大将的な文化だと思うのです。仮に修行中、カネを貯めて他の寿司屋に試食に行ったとしても自分の仕事場に戻れば他の店で見たことや味は否定されるのです。これは修行に夜暗黙知の習得が本来もっと伸ばせるはずの経験値の積み上げを阻んているとも言えないでしょうか?
プロフェッショナルとは何か、いろいろ定義があるのですが、私がここで注目しているのはその発想ややり方、作品に一定の汎用性があり、かつ優れていると評価されるかであります。これが磨かれなければ日本の産業そのものが考えない文化になってしまわないか懸念をしています。
まずはヒエラルキー構造をもう少しフラットな構造にし、より強い専門性で磨きをかけることが重要ではないでしょうか?最近は暗黙知の存在を取り込み、それをうまく水平展開している企業も出てきています。効率化や企業の能力をあげるのはAIだけではなく、既存の従業員との取り組み姿勢の見直しでも十分達成できるのではないかと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2026年3月11日の記事より転載させていただきました。







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