色彩は記憶に残る——ナベノイズム、最後の時間へ

出口里佐です。

東京・浅草。観光客で賑わう通りを少し離れた先に、隅田川沿いに静かに佇む一軒のフレンチがあります。

ナベノイズム正面

ナベノイズム。都営浅草線の浅草駅から徒歩5分ほど、銀座線からでも8分ほど。街の喧騒をやわらかく遠ざけるような場所に、その店はあります。

フランス料理でありながら、ここで感じるのはどこか日本の気配です。浅草の老舗の最中店の素材、両国の蕎麦屋の蕎麦粉、奥井海生堂の昆布、そして富山県産のホタルイカや大分県の真鯛。各地の風土を感じさせる食材が、一皿の上で静かに調和しています。

シェフの渡辺雄一郎氏は、かつてジョエル・ロブションの総料理長を務め、2008年のミシュラン三ツ星獲得以降、9年間その評価を守り続けてきた方です。2016年7月にこの店を開いてから、今年で10年という節目を迎えます。

そして2026年12月、この店は閉店する予定だと聞きました。

その知らせを知ったとき、自然と「もう一度訪れたい」と思いました。友人を誘い、久しぶりのランチへ。訪問は今回で3回目です。最初は2017年、そして2018年。それ以来、気がつけば8年という時間が過ぎていました。

扉を開けると、どこか懐かしさと同時に、少しだけ緊張もありました。けれど、その気持ちはすぐにほどけます。

エントランスで迎えてくださった渡辺シェフが、「お久しぶりです」と声をかけてくださったのです。さらに、私が料理学校ル・コルドン・ブルーの出身であることまで覚えていてくださったことに、思わず胸が温かくなりました。

この日のコースは、季節の流れをそのまま写し取ったような構成でした。

最初の一皿は、小さなアミューズから始まります。軽やかな口当たりの中に、素材の輪郭がくっきりと感じられ、これから始まる時間への期待が自然と高まります。

アミューズ。
左から、モナカのカスクルート、バスク風グジェール、アンチョビバターをまとったカブ。正式名はお店のメニューでご確認ください。
色々な味、食感が時間差で味わえました。

続く前菜では、蕎麦粉や魚介の香りがやわらかく広がり、日本の食材がフランス料理の技法の中で丁寧に生かされていることが伝わってきます。

プティポワ(グリンピース)とスナップエンドウのヴルーテ、ミントのエキューム。
グリンピースとミントは王道の春を感じる組み合わせ。

そば粉を使った一皿は、ナベノイズムの看板ともいえるスペシャリテ。どこか懐かしさを感じさせながらも、驚くほど洗練された味わいでした。

器の底には、ソースエミュルッショネの技法による、そばがき、利尻昆布のジュレ、キャビア、甘えび。スプーンにウォッカクリーム。

前菜の中でも、ひときわ印象に残ったのが、富山県産のホタルイカと北海道産ヤリイカを合わせた一皿でした。

ミロの絵画のような一皿。
ホタルイカとイカ、クレムドトマト、イカ墨、サフランライス、行者ニンニク、ホワイトセロリマリネ。

皿の上には、鮮やかな色彩が広がっています。サフランのやわらかな黄色、クレムドトマトのオレンジ、そしてイカ墨の深い黒。それぞれの色がくっきりと際立ちながら、不思議と調和していて、まるで一枚の絵画のようにも見えます。

ふと、スペインの画家、ジョアン・ミロの作品を思い出しました。自由でありながら計算された色彩の配置。その感覚が、この一皿の中にも息づいているように感じられます。

味わいもまた、見た目の印象を裏切りません。ホタルイカの凝縮された旨味と、ヤリイカのやわらかな甘み。それぞれの個性が重なり合いながら、ソースの香りとともに、ゆっくりと広がっていきます。

視覚と味覚の両方で楽しませてくれるこの一皿に、この店らしさが凝縮されているように思いました。

大分県豊後産天然真鯛は太白オイルで加熱、2種のグレープフルーツのコンディマン、コクのあるシャンピニオンデュクセル、進化系ブールブラン。

魚料理には、大分県産の真鯛。火入れは繊細で、しっとりとした身の甘みが静かに広がります。ソースには柑橘のニュアンスが感じられ、重くなりすぎず、最後まで心地よくいただけます。

そしてメインの鴨料理。豊橋産の鴨は香ばしく焼き上げられ、力強さの中に品のある旨味がありました。八丁味噌のような味わいの大徳寺納豆のソースは、蕗の薹の苦味がアクセント、春らしく、筍や山菜のアクセントも添えられ、季節の移ろいが一皿の中に表現されています。

愛知県豊橋産あいち鴨、蕗の薹と大徳寺納豆のタプナードソース。
付け合わせには、筍、タラの芽、こごみ、うるいなど春の和の野菜。
右上は、種亀最中に江戸前ハーブのタルトレット・ア・ラ・サラダ。

デザートに至るまで、その流れは途切れることがありません。苺やハーブの爽やかさ、そして焼き菓子のやさしい甘み。すべてが自然な余韻としてつながっていきます。

島根県産「美都いちご」のグラニテ、ハイビスカスのジュレ、天城山葵がほんのり香るクレームシャンティ、木の芽。

お料理は、以前と変わらないどころか、より一層研ぎ澄まされているように感じました。華やかさを競うのではなく、素材と向き合い、静かに引き出していく。国産の食材を使いながらも、フランス料理の骨組みがしっかりと感じられました。

浅草という土地で、この料理が提供されていることにも意味を感じました。多くの人が行き交う街の中にありながら、ここにはゆっくりと流れる時間があります。その時間の中で、このお店の料理もまた、少しずつ磨かれてきたのだと思います。

また近いうちに、もう一度。そんな気持ちを胸に、店を後にしました。

ナベノイズムのテラス席からの眺め。隅田川は目の前、スカイツリーも大きくみえます。
初めて来たとき、セーヌ川とエッフェル塔みたいですね、とシェフと話したことを思い出しました。

ナベノイズム

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