
幕末の志士・中岡慎太郎曰く、「謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない」とのことです。国語辞書を見ますと、謙虚とは「謙遜で、心にわだかまりのないこと。ひかえめで、つつましやかなこと。へりくだって、つつましやかにすること。また、そのさま」と書かれています。謙虚というのは立派な美徳であり、慇懃無礼(いんぎんぶれい)といったこととは全く異なります。
「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず・・・人に対して御世辞を並べ、上辺の愛嬌を振り撒き、過ぎた恭(うやうや)しさを示すのは恥ずべきことである」(公冶長第五の二十五)とありますが、これまた謙虚ということとは異質です。
謙虚というのは、言うべきことを言わないことではありません。目上であろうが同輩であろうが目下であろうが、礼節をきちんと弁えつつ堂々として、言うべきは基本きちっと言えば良いでしょう。「君子は敬して失なく、人と恭々(うやうや)しくして礼あらば、四海(しかい)の内は皆兄弟(けいてい)たり…君子は慎み深く過ちを犯さず、人に対して謙虚で礼儀正しくしていれば、全世界の人はみな兄弟です」(顔淵第十二の五)――「礼に過ぎれば諂(へつら)いとなる」(伊達政宗五常訓)わけで、中庸に徹するべきでしょう。
それからもう一つ、前回も『挫折しない生き方』(北尾吉孝日記)で申し上げたように、自信過剰もいけません。「謙虚とは堂々として過信しないこと」であるにも拘わらず、例えば「私は日本一賢い」「私に一切の過ち無し」と本気で思い込んでいる人も散見されます。評価というのは基本他人が下すものですから、自分勝手に自分自身を過大評価しないことです。我々は唯々天と対峙し自分の良心に顧みて、「俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じず」(『孟子』)の精神で、世の毀誉褒貶を一々気にしない生き方を貫くだけです。
最後に、日本が誇るべき大哲人・教育家である森信三先生の大阪天王寺師範学校本科での講義を纏めた『修身教授録』の第1部、第30講「謙遜と卑屈」より次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します――人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜にもなり得ると思うのです。
(中略)自ら信ずるとは、要するに、自己を取り失わぬということだからであります。(中略)卑屈も傲慢も、それが自己を取り失うところから起こる点では、結局同一であります。(中略)しかしそれだけでは、実はまだ不十分だと思うのであります。(中略)どうも謙遜という徳は、私の考えでは、元来対人的なところにその本質はなくて、その人がどれほど真理とか道というものと、取り組んでいるか否かによるものだと思うのであります。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2026年4月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。







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