入れ墨にドン引きする自分は時代遅れ?

黒坂岳央です。

先日、人と会って会話中に「ほら」と相手から突然入れ墨を見せられた。それまでは普通に会話をしていたのだがその瞬間、正直いってドン引きしてしまった。サーッと心のシャッターが下りるのを感じなかった、といえば嘘になる。

今どきは入れ墨に否定的な感情を示すと「多様性の時代に時代遅れ」「日本人特有の偏見」と思う人もいると思う。だが、頭ごなしに「入れ墨はダメだ」と思っているわけではなく、根拠はある。他にも同じ感覚の人はいるかも知れない。

最初に断っておく。入れ墨を入れている人が全員、反社会的勢力と関係があるとは思っていないし、全員が危険人物だなどという乱暴な一般化をするつもりはない。問題は入れ墨を入れた人の職業などではなく、もっと別のところにある。

入れ墨に否定的なのは時代遅れなのか?このテーマを考察したい。

Alex Liew/iStock

なぜ?入れ墨を入れる日本人の動機

日本人で入れ墨を入れる動機を考えてみる。

主に自分の価値観や美意識を体に刻むアイデンティティの外部化だ。「私はこういう人間だ」という宣言である。他にはファッション感覚があるだろう。

海外文化への憧れやサブカルチャーへの帰属意識から、軽い気持ちで入れる若者も少なくない。特に若い女性の中には「かわいい」「かっこいい」という審美的な動機だけで入れるケースもある。

最初から避けられる覚悟を持っているなら問題はないが、後者はどうだろか。嫌われると思っていなかった人間が、現実に直面したとき「社会は入れ墨に寛容であるべき」と言い出す。

自由には責任が伴う

日本社会において、入れ墨がどのように見られるかを知らない成人は存在しない。就職活動で不利になる。温泉やプールに入れない施設がある。金融機関の審査に影響する場合もある。一般的には強く警戒される。これらは周知の事実だ。

それでも入れ墨を入れるという選択をした人間は、その社会的コストを引き受けた上で選んだはずだ。時間をかけ、お金を払い、痛みに耐え、入れ墨を入れるというハードルを自らの意志で越えた。誰かに強制された人はいない。

自由には結果が伴う。喫煙の自由がある人間が、肺がんのリスクを社会に負わせろとは言うべきでない。深夜に大音量で音楽を流す自由がある人間が、近隣住民に「慣れろ」とは言えないはずだ。入れ墨もそれと同じで、自らその選択をした以上、コストを払う場面はゼロではない。

「海外は入れ墨は普通」ではない

「入れ墨に不寛容な日本社会は遅れている」という主張を耳にすることがある。欧米では普通だという文脈で語られることも多い。だがこれは事実ではない。

アメリカでも医師、弁護士、経営者といった社会的地位の高い層がわざわざ入れ墨を入れることはほぼない。

そして海外でバズった投稿にこういうものがあった。「高級車にあえて派手なステッカーを貼る人はいない。ステッカーを貼るのは自分の価値を自ら証明できない人間がすることだ」。入れ墨も同じ構造で読める。入れ墨は自分の内側にある価値や信念を、外側の記号で補強しなければならない状態の表れだという見方だ。

これはデータではなく、個人体験の一次データに過ぎないが、筆者が米国に留学した際、クラスメイトで入れ墨を入れている人は一人も見たことがない。私学で高額な学校で、親も大企業サラリーマンや大学教授などの職業がおり、クラスメイトの実家に遊びに行った時も親は入れ墨などしていなかった。

「入れ墨に不寛容なのは世界で日本だけ」といった極論は実際は正しくなく、入れ墨が社会的地位と負の相関を持つという傾向は、日本に限った話ではない。

人の内面は外見に出る

筆者は内面は外見に現れると思っている。派手な性格の人は外見は派手であり、おとなしい人格の人は格好も大人しくなる。100%ではないが、傾向としては確実にあるだろう。そして「見た目で判断するな」と入れ墨を入れた人たち自身も、おそらく無意識で相手を外面で判断している。

これはたとえ話だが、「入れ墨は多様性の一つだ」と主張する人間も、命がかかった局面に置かれたらどうなるだろう?重篤な手術を前にして、執刀医が全身に入れ墨を入れたサングラスの人物に頼むだろうか。おそらく誰もが普通の白衣を着た医師を選ぶだろう。

採用担当者として優秀な人材を選ぶ場面でも、融資先を判断する場面でも、人は外見から得られる情報を手がかりにして判断を下すはずだ。これは偏見ではなく、認知コストを下げるための合理的な処理といえる。

自分の利害が絡む場面では見た目で判断しておきながら、他人が同じことをすると「不寛容だ」と批判するなら、この非対称性は説明がつかないダブルスタンダードとなる。

筆者が相手の入れ墨を見た瞬間、サッと心の距離が離れたのはおそらく、「不寛容な日本社会において、自らの立場を悪くすることをわざわざコストをかけて積極的に取りに行った」という内面が、社会性というパラメータを重要視する自分の価値観と合わない、という心からのシグナルだったのだろうとメタ認知している。

入れ墨を入れる自由があるように、入れ墨を見て否定的な感情を持つ自由がある。よく「入れ墨を否定するのは多様性の時代に遅れている」という意見を見るが、「入れ墨を受け入れるべき」という意見で染まった社会は多様性とは真逆である。

真の多様性とは入れ墨を支持する人、否定する人両者を認める社会だろう。そこまで考えた後、自分では時代遅れではないと考えたが、どうなのだろうか。

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働き方・キャリア・AI時代の生き方を語る著者・解説者
著書4冊/英語系YouTuber登録者5万人。TBS『THE TIME』など各種メディアで、働き方・キャリア戦略・英語学習・AI時代の社会変化を分かりやすく解説。

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