
心臓手術を受けたあと当時1歳の長女が死亡…長野県立こども病院側に「注意義務違反」両親が損害賠償求めて提訴…病院運営する県立病院機構に8398万円余求める

このニュースが医師の間で大きな話題になっている。残念ながら、反応の多くは両親に対して非常に否定的なものである。正直なところ、私はこれらの反応をかなり危険だと思っている。
医師たちの過剰な反応と「法の下の平等」への違和感
Xで支持を集めている医師と思われるポストをいくつか例示しよう。
てめぇのガキが助からなかった腹いせ
訴訟というその愚行が将来救えるはずだった他のたくさんの小さな命を奪っていることに気づかない、視野の狭いアホな親よ
この「自分の子どもさえ助かればいい」っていう愚かで勝手な、愛情を勘違いしたアホを心の底から軽蔑するわ。 https://t.co/v4RFq4Fs4u
— DJリョウ (@reo724) April 17, 2026
こういうのはそもそも提訴できないように法律を変えるべきだし、提訴できるならこういう手術をする医者の年俸を3億円くらいにしないといけない。日本は提訴自由だし小児心臓外科医の給料は他の医者と同じ。…
— ロスジェネ勤務医 (@losgenedoctor) April 16, 2026
小児心臓血管外科で手術必要な子は手術しなきゃ遅かれ早かれ死ぬ。
高難度の手術を受けても高額療養費で10万円くらいで済むし、失敗されても8000万請求できるしめっちゃお得やな。訴えたもん勝ちや。— だる医 (@kpoppokissme) April 16, 2026
これら以外の反応も合わせると、医師側の意見はおおむねこうまとめられる。
小児外科とは選ばれた数少ない医師であり、この病院も経験豊富、単純な注意義務違反があるわけがない。こんなことで訴訟されたら誰も小児外科をやらなくなる。手術が失敗したら訴訟して金を巻き上げるという発想の遺族はおかしい、それに協力する弁護士もおかしい。
これに対して多くの弁護士は
「医師は訴訟を受けない特権階級にでもなりたいのか」
と批判している。
先日の裁判官マップの問題では医師側を支持した私であるが

今回に関しては、さすがに医師側の意見は行き過ぎだと思う。
判決に不服ならまだしも、訴訟を受けたこと自体への不満を隠すそぶりもなく患者家族に向けて堂々と主張するのは、法治国家において法の下の平等を受け入れる態度とは到底言えない。
医師が訴訟を免れるべきというなら、では医師が誰かに法を超えて脅かされたときも、法に守られなくてよいのかとも言いたくなる。
医療訴訟の負担は本当に「診療不能」レベルなのか
とはいえ、私も医師であり、彼らの不満と不安には一定の理解はできる。その内実は概ね三つに集約できる。訴訟による時間的束縛、金銭的損失、そして心理的負担である。
しかし、これらのいずれも、そこまで大きな負担かは疑問だ。
まず時間的負担について。カルテの洗い直しや弁護士との打ち合わせなど一定の時間は必要だが、日常診療が止まるほどではない。訴訟大国アメリカの救急医を対象にした報告では、防御準備と打ち合わせに要した時間は31時間超とされている。
Fear Not: Utilizing Simulation for Medical Malpractice Education
事案の重さにもよるが、医師本人の実働は数十時間規模、重い事案では100時間前後に達しても不自然ではないだろう。しかしこれは忙しい外科医であれば一か月の残業時間に相当する。楽な時間とは言わないが、仕事ができなくなるほどとは到底言えない。
金銭面については、多くの勤務医にとって、医師賠償保険や病院側の対応でかなり緩和されるはずであり、少なくとも最大の問題ではない。
やはり核心は心理的負担である。
医師にとって最大の負担は、訴訟実務そのものというより、「訴えられた」という事実がもたらす心理的打撃なのだろう。訴訟への実務的・心理的負荷はあるが、医療訴訟に強い弁護士を見つけることもさほど難しくない。
より根深いのは、訴訟を受けたことを不名誉と感じる心情、患者家族からの不信を突きつけられる苦痛だ。これらは確かに辛い。しかし不名誉とは本来、裁判で負けた場合の話であり、訴訟を受けたこと自体を不名誉と捉えるのは過剰反応と言わざるを得ない。
金銭目的ではない、遺族が訴訟を起こす真の理由
患者・家族の立場にも目を向けるべきだ。そこに法的過失があろうとなかろうと、我が子の命を失っている。心理的負荷が大きいのは明らかに家族側だ。
AAFP(アメリカ家庭医学会)の論考(Roberts, 2003)によれば、多くの医師は患者が主に金銭目的で提訴すると思っているが、実際には大多数の患者の主要動機は金銭ではなく、同様の事故の再発防止、何がなぜ起きたかの誠実な説明、そして医療機関の説明責任を求めることだとされている。軽はずみに訴訟を起こすとは考えにくい。
治療成績だけでなく、説明と信頼関係の維持まで含めて医療の一部である以上、不幸な転帰の後に家族の不信が噴き出すこと自体も、医療の射程の外とは言い切れない。医師免許という厳しい参入規制と権限の付与がある以上、そのケアとして訴訟に向き合う時間を費やすことは、専門職としての責任の一部として引き受けるべきではないか。
解決策としての「無過失補償制度」
ただし、ベストに近い努力を尽くした結果を「過失」と言われることに納得がいかないのも理解できる。そこで提案したいのが、無過失補償制度である。
これは新しい提案ではない。日本医師会を含めて以前から提言されてきた。
残念ながら未だ実現していないが、医療訴訟における無駄で不毛な心理的争いを避ける有効な方法だと思う。
無過失補償制度の最大の利点は、その名の通り、過失が認められなくとも家族が金銭的補償を受けられる点だ。医師としても、過失なく不運にして不幸な転帰となった患者には何らかの補償があるべきと思っているはずで、納得できないのは「自分の過失と言われ、自分が払わされる」という点である。逆に患者としても、現状では医師の過失を問う以外に手段がないという構造的問題がある。
ただし補償だけでは不十分で、無過失補償制度と同時に、遺族が「原因の説明」を求める動機には別途の対応が必要だ。司法を通じて患者・家族と振り返り、真相を明らかにする場として、当該訴訟とは直接関係のない第三者的な医師と司法の共同機関があっても良いかもしれない。
また、過失なしか過失ありかの二択ではなく、無過失の部分と過失ある部分の割合を認定することもあり得るだろう。補償額の合計は同じでも、責任の所在をより精緻に確認できるならば、双方にとってフラットな検証が可能になる。
「囚人のジレンマ」を抜け出す三方一両損の精神
現状の医療訴訟はゲーム理論における囚人のジレンマに陥っている。
患者・家族は不信から訴訟に踏み切り、医師は防御的になり情報開示を絞り、それがさらなる不信を招く。各自が自己利益を優先した結果、全員が損をする構造だ。
この状況を打開するのが、江戸の「三方一両損」の発想である。
裁判官は医師を含む一般人からの批判を真摯に受け止め、説明責任の新たな形を模索する。
医師は過失への反論は当然するとして、患者の苦しみを受容し、訴訟に伴う時間的・心理的コストを専門職の責任として引き受ける。
それによって患者・家族も、不幸な転帰に対して無闇に医師を責めることなく、補償と説明を得て受容できるようになる。
医療訴訟の解決には、制度の整備と、その前提にある最低限の相互信頼の醸成が不可欠だ。アメリカのような訴訟大国になることは医師・患者・社会全体の疲弊を招く。
日本ではまだ信頼関係は壊れきっていない。
無為な訴訟を回避する制度設計のチャンスは今である。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2026年4月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。







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