
(前回:高齢者医療の限界(前編):「子が親を支える」論の落とし穴)
前編では、高齢者医療費の自己負担を引き上げる議論に対する典型的な反論——「結局は子が親の医療費を肩代わりするだけだ」という主張——が、現行制度の構造を踏まえれば成立しないことを論じた。現役世代はすでに、健保組合経常支出の約4割を占める拠出金として、他人の親の医療費を強制的に支払わされている。

後編では、もう一つの典型的反論である「おま老」論を取り上げ、続いて過剰受診の問題を「反サロ」という概念で整理する。そのうえで、価格サインを回復する具体的改革案として、現行の委任受領払い(現物給付)から償還払いへの変更を提案する。
「おま老」論の不成立——将来世代は同じ給付を受け取れない
高齢者負担増の議論には、もう一つの典型的反論がある。「お前も老人になる」、いわゆる「おま老」論である。今は現役世代でも、いずれ高齢者になる以上、高齢者の自己負担を引き上げれば結局は将来の自分の首を絞めるだけだ、という主張である。
一見、世代間の連帯を説く穏当な議論に見える。だが、この主張は決定的に重要な前提を見落としている。「現在と同等の医療給付・同等の自己負担水準が、将来も維持される」という前提である。
その前提は成立しない。
第一に、人口構造がそれを許さない。現役世代が高齢者を支える賦課方式の社会保険は、現役世代の数と所得に依存する。日本の生産年齢人口は減少を続け、団塊ジュニア世代が高齢者になる2040年代以降、現役世代1人当たりの高齢者扶養負担はさらに重くなる。今と同じ給付水準を将来世代に約束することは、将来の現役世代に今より重い保険料を強制することと同じである。
第二に、財政がそれを許さない。健保組合の8割以上がすでに赤字で、収支均衡に必要な実質保険料率は10%を超えている。少子高齢化が進む中で給付水準を維持しようとすれば、保険料引き上げか公費投入の拡大しかない。前者は現役世代の手取りをさらに削り、後者は赤字国債を通じて将来世代に付け回される。いずれにせよ、「現在の高齢者と同じ給付を、現在と同じ自己負担で受け取る」未来は財政的に不可能である。
第三に、医療技術の進歩それ自体が給付費を膨張させる。新薬、新規医療機器、高度医療の単価は上昇を続けている。同じ「1割負担」でも、分母となる医療費総額が膨らめば、保険財政への負荷は加速度的に増大する。
つまり「おま老」論は、現在の制度が将来もそのまま続くという、ありえない前提に立っている。実際には、何もしなければ制度が破綻するか、給付の大幅削減か、現役世代の保険料の壊滅的引き上げのいずれかが起きる。
将来世代の自分が、現在の高齢者と同じ給付を、同じ自己負担で受け取れる保証はどこにもない。むしろ、何もせずに今の構造を温存することこそ、将来の自分に対する最大の裏切りである。
「お前も老人になるのだから黙って払え」という論法は、現役世代に対する説得ではない。制度の持続可能性を放棄したまま、将来の請求書を見ないふりするための呪文である。
本来の問いはこうである。今の現役世代が高齢者になったときに、どのような医療給付水準を、どのような自己負担で、どのような財源で維持するつもりなのか。その設計図を示さないまま「お前も老人になる」と説くのは、議論ではなく感情操作である。
過剰受診と「反サロン医療」
ここで重要なのは、日本人がそもそも医療にかかり過ぎているという事実である。
OECD Health Statisticsによれば、日本の住民1人当たり年間医師受診回数は約12.5回(2019年)で、OECD平均の約6.8回を大きく上回る。スウェーデンはさらに低く、日本の数分の1の水準にとどまる。それにもかかわらず、日本とスウェーデンの平均寿命や主要な健康指標は概ね同等である。これは、日本の高頻度受診のかなりの部分が、少なくとも人口レベルでは追加的な健康アウトカムに結びついていない可能性を示している。
ここで筆者があえて持ち込みたいのが「反サロ」という言葉である。反サロとは「反サロン医療」の略であり、病院や診療所を実質的に高齢者の社交場(サロン)として利用する受診行動、およびそれを温存する制度設計に反対する立場を指す。
地域の診療所では、明確な医学的必要性が乏しいにもかかわらず、定例の通院、長時間の世間話、検査と処方の儀式化、待合室での顔合わせが半ば目的化した受診が観察される。これは個々の高齢者の人格や孤独の問題ではない。窓口負担が極めて低く、頻回受診のコストがほとんど自己に跳ね返らない制度が、構造的にこの行動を誘発している。
サロン的受診それ自体に何の社会的価値もない、と言いたいのではない。問題は、その費用を、本人とほぼ無関係な現役世代の健康保険料と税で恒常的に賄っていることだ。社交や見守りの機能を医療制度に外部化し、その請求書を世代間移転で処理する構造は、医療保険の本旨から逸脱している。
さらに、日本国内にも自己負担の変化が受診行動を変えることを示す因果的証拠がある。Shigeoka(2014, American Economic Review)は、70歳到達時に自己負担率が60〜80%低下する制度上の不連続を回帰不連続デザインで利用し、自己負担低下によって外来・入院利用がともに有意に増加することを示した。一方で、短期的な死亡率や健康指標への有意な改善はほとんど確認されなかった。
著者自身は長期効果について本研究では結論できないと留保しているが、少なくとも短期的には、自己負担を下げて受診を増やしても平均的に健康改善をもたらしたとは言いにくい、という結果である。
つまり、「自己負担を上げると必要な医療まで控えられる」という反論だけで改革を止めるのは不十分である。むしろ、低すぎる窓口負担が低価値受診とサロン的受診を誘発し、それを現役世代の保険料で支えている現状こそ問題視されるべきだ。
価格サインの回復——償還払いへの変更を
医療には価格サインが必要である。日本の現物給付制度では、患者は医療費総額ではなく自己負担分だけを見て受診を判断する。3,000円の診療で1割負担なら、患者が見る価格は300円であり、残り2,700円を誰かが負担している事実は意識されにくい。この「価格の不可視化」は、医療資源のコストを過小評価させ、受診の心理的ハードルを下げる。
筆者は、原則3割化と並ぶ第二の改革軸として、現行の委任受領払い(現物給付)から償還払いへの段階的変更を提案したい。
現行制度では、保険診療の自己負担以外の部分は患者から保険者へ直接請求されない。患者は医療費総額を知らないまま、窓口で1割なり3割なりを支払って帰る。これに対し償還払い方式では、患者が窓口でいったん全額を支払い、後日、保険者から保険給付分が払い戻される。患者は自分が利用した医療の総コストを必ず一度は目にし、自分の口座から出た金額として体感することになる。
償還払いには弱点がある。一時的な立替えが困難な低所得者・高額医療を要する患者にとっては受診抑制要因になりかねない。だからこそ、低所得者、高額療養費該当者、長期療養者、慢性疾患の継続管理などについては従来通り現物給付を残す、あるいは即時還付の仕組みを設けるなどの例外設計が必要である。
しかし、年齢や慢性疾患の有無を問わず一律に現物給付を続けることは、価格不可視化を制度として温存することにほかならない。少なくとも、軽症外来や予防的受診、サロン的受診が想定される領域については、償還払いを原則とすべきである。患者が一度でも医療費総額を「自分の財布の中身」として通過させれば、低価値受診の限界部分は確実に削減される。
高齢者医療の自己負担3割化は、単なる財政削減ではない。原則3割化と償還払いへの変更を組み合わせることで、低すぎる窓口負担と価格不可視化によって失われた価格感覚を回復し、医療を「ほぼタダ同然の公共サービス」から「社会全体の資源を使う行為」へ戻す改革である。
結語——感情ではなく制度で支える
現役世代はすでに二重に支払わされている。一つは、社会保険料としての強制負担。もう一つは、家族倫理としての私的負担。これを「親の医療費は子が払うものだから」と正当化するのは、制度による強制負担と家族による私的扶助を混同している。
「お前も老人になる」と説いて改革を止めるのは、現在の制度が将来も維持されるという成立しえない前提に立った感情操作である。
高齢者にも貧しい人はいる。だから守るべき人は守る。しかし、現役世代にも貧しい人はいる。子どもを持てないほど生活に余裕のない人もいる。親を頼れない人もいる。将来、自分が十分な医療を受けられるか不安な人もいる。
本当に問うべきは、親を持つ子だけでなく、親を失った人、子を持たない人、低所得の現役世代、将来世代まで含めて、誰に、どのような根拠で、どこまで負担を求めるのかである。
社会保障は、感情で維持するものではない。制度として、耐えられる形に設計し直すべきである。







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