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二つの国会質問
最近、参政党の桜井祥子議員が、「日本がカーボンニュートラルを達成しても、気温を下げる効果は0.006℃程度にすぎない」という杉山大志氏の試算を引用し、莫大なコストを投じる政策の実質的な効果について問いただした。この数字は「コストと効果の不均衡」を可視化するものであり、政策の根拠そのものへの問いである。
同様の問いは、日本保守党の百田尚樹代表によっても発せられている。「カーボンニュートラルを進めているが、そもそも二酸化炭素が温暖化の原因だという科学的根拠は何か」——政策の是非ではなく、その前提そのものを問うものだった。
ところが大臣も官僚も明確に答えられず、答弁は歯切れの悪いまま終わった。答えているようで何も答えていない——その”沈黙”を感じたのは、筆者だけではないだろう。
二つの質問に共通するのは、「政策の下流」ではなく「政策の上流」への問いかけという点である。しかし、いずれも明快な回答は得られなかった。
0.006℃と数百兆円の非対称
桜井議員が引用した0.006℃という数字を、国際的な文脈に置いてみると、その意味はさらに鮮明になる。2023年のデータによれば、世界のCO2排出量に占める各国の割合は、中国32.4%、米国12.8%、インド8.0%、ロシア4.9%、EU全体で約7%に対し、日本は約3%にすぎない。
日本がこの約3%をネットゼロにしたとして、世界全体の排出量に与える影響は限定的である。仮にIPCCの気候モデルが正しいとしても、日本単独の削減努力が地球の気温に与える効果は、計算上0.006℃以下という水準に収まる。
一方、そのコストはどれほどか。政府自身の試算でも、今後10年間のGX投資だけで150兆円を超えるとされており、2050年までの累計は数百兆円規模に達する。数百兆円を投じて得られる気温の変化が0.006℃以下——この非対称性こそが、桜井議員の質問の核心にあった問いである。
排出大国は何をしているか
日本の「約3%削減」の意義を問うためには、残り97%を排出する国々の動向を見なければならない。
中国は世界最大の排出国でありながら、2060年のカーボンニュートラルを目標としており、2030年まではCO2排出量の増加を続けると宣言している。インドも2070年を目標とし、当面は石炭火力を拡大する計画だ。
米国はトランプ政権下でパリ協定から再び離脱し、さらに、イスラエルに引きずられる形でイラン攻撃を始め、ミサイル応酬とホルムズ海峡の事実上の封鎖が世界のエネルギー供給を直撃している。ロシアはウクライナ侵攻以降、エネルギーを地政学的な道具として活用しており、EUは脱炭素に積極的だが排出シェアは約7%にすぎない。
こうした現実を前にすれば、「国際協調による脱炭素」とは絵に描いた餅に等しい。問われるべきは、「日本の約3%削減が、どのような国際的枠組みと組み合わさってこそ意味を持つのか」ということであり、その枠組みが機能する見通しのないまま国内に数百兆円のコストを課すことの正当性である。
内外非対称の構造——費用対効果は脱炭素だけの問題ではない
費用対効果の問いは、脱炭素政策だけに向けられるべきではない。
本来、政府の第一の責務は、国益を守り発展させること、国民の安寧・健康・安全を確保すること、産業を活性化させ経済成長を維持すること、すなわち我が国の強靱化である。しかし現実には、国内では電気代の上昇・再エネ賦課金・増税圧力が国民と産業に重くのしかかり、家計を圧迫し産業競争力を削いでいる。
一方、対外的には、ウクライナ支援や対米投資枠組みなど、多額の資金が十分な国会審議を経ることなく決定・表明されてきた。その国益への具体的な見返りと費用対効果が、国民に対して透明かつ丁寧に説明されているとは言い難い。内向きには増税・負担増、外向きには大型支出——この内外非対称の構造は、脱炭素政策における「前提を説明しない」構造と本質的に同じ問題を抱えている。
なぜ“沈黙”するのか——三つの層と構造的理由
国会での“沈黙”には、三つの層がある。第一は「知っているが言えない」沈黙——政治的・外交的制約が答えを封じる。第二は「知らない、考えていない」沈黙——政策の上流で決まったことを下流の担当者がただ受け取っているだけで、前提を自分の言葉で語る準備がない。第三は「適切な回答を持ち合わせていない」沈黙——科学的・技術的な問いに答えを構成する知識も訓練も、制度的に用意されていない。
この構造を図式化すれば、上流(専門家・外交ルートによる合意形成)で決まった「カーボンニュートラルを目指す」という原則が、下流(国会答弁・政策実行)に「この前提で動け」として降りてくる。下流の担当者は前提を検証・説明する訓練も権限も持たない。だから「IPCCの科学的合意に基づく」という言葉が繰り返されるが、それは「誰かがそう言っているから」という外部への丸投げにすぎない。
前提が問えない政策の危険性
「0.006℃以下の効果のために数百兆円を投じる根拠は何か」——この問いに答えられないのは、個人の能力の問題ではなく、構造の問題である。そしてそれは、単なる論理的欠陥でもない。その政策が国民の合意に基づいているかどうか、という「民主的正当性」の問題である。
前提が曖昧なまま進む政策は三つの問題を生む。第一は「不信感の増大」——電気代・再エネ賦課金の負担を求めながら根拠を説明できない状況は、政策への信頼を根底から掘り崩す。第二は「対立の激化」——前提を問う声が「反科学的だ」とレッテルを貼られることで本質的な議論が封じられ、社会の分断が深まる。第三は「修正能力の喪失」——前提が絶対化されると、コストが当初想定を超えても修正できなくなる。
問いに答えられる政策へ
「前提を問う質問に答えられない政策は、修正も学習もできない」——これが、二つの国会質問が照らし出した本質である。
真に国民の合意に基づく政策のためには三つのことが必要だ。政策の根拠を自分の言葉で説明できる担当者を育てること。前提を定期的に再検証する仕組みを制度に組み込むこと。「国際合意だから」という一言で議論を終わらせない文化を取り戻すこと。
これは脱炭素政策に限らない。「なぜその前提を採用したのか」「費用対効果はどう評価されたのか」「国民への説明責任は果たされているか」——この三つの問いに答えられる政策論議こそが、国民の信頼と国家の強靱化の基盤となる。







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