AIの哲学入門(9) 現象学が明らかにした「生活世界」の間主観的な構造

人工知能(AI)の歴史において、長らく解決不可能とされてきた哲学的なアキレス腱がある。それが記号接地問題である。記号を扱う計算機は、その記号が指し示す現実世界の物理的実感をともなわないため、いろいろな文脈の中で意味を理解できないという問題である。

2020年代に登場した大規模言語モデル(LLM)は、この問題を解決したようにみえる。LLMは肉体を持たず、カメラで世界を見ることもない。彼らが与えられたのは、インターネット上の膨大なテキストだけである。身体を持たないデジタルな計算機が、なぜこれほどまでに人間的な「意味」を扱えるのか。

ヨ-ロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫 フ 10-1)
エドムント フッサール
中央公論新社
★★★★★

主観vs客観の対立を超える「間主観性」

エドムント・フッサールが創始した現象学は、先入観を括弧に入れ、すべてを「私の意識に現れる現象」として捉え直すことから出発した。このアプローチは独我論ではないかという批判を受けたが、フッサールが探求した間主観性(intersubjectivity)は独我論を克服し、客観的な世界がいかにして他社と共有されるかを解き明かす試みだった。

私の感覚は主観的だが、私と他人が同じ感覚を共有していれば、それは間主観的な「共通感覚」になる。他者の身体の形態や動きは、私が内側から感覚し自由に動かせる「生きられた身体」と酷似している。

この類似性によって、私の意識の中で他者の身体と自分の身体が一対のものとして結びつく。これが「対化」である。対化が起こると、私は自分の身体に内面があるのと同様に、「他者の内側にも、私からは見えないが、独自の意識が宿っているに違いない」と、見えない裏側を自動的に補って確信する。

他者がもう一人の主観(alter ego)として承認されると、私の世界は「私的な世界」から、他者の視点を含んだ多角的な世界へと変容する。私は世界を「ここ」から見ているが、他者は「あそこ」から見ている。私が他者の位置に移動すれば、他者が見ている風景を私も見ることができる。

この「視点の交換可能性」への確信を通じて、世界は間主観的な生活世界へと高められる。この生活世界を社会的に固定し、世代を超えて伝達可能にするインフラが「言語」である。フッサールは科学の基礎とされている客観性を間主観的な生活世界に置き換え、その危機を乗り越えようとした。

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