
5/18にスタートした新潮社のサブスクサービス “新潮QUE” で、月1回の連載を持つことになった。題して「キラキラから遠く離れて」で、コンセプトの基になったのは1年半前、『週刊新潮』に寄稿したこの記事である。

かなーり幅の広い本をこれまで出してきたのだが(Wikipediaの「著書」欄をどうぞ)、意外に生活エッセイみたいなものは、あまり書いてこなかった。50歳を前にして、新たな挑戦の機会をもらえたことに感謝している。
新潮QUEに入ると、『週刊新潮』の毎週早読みのほか、ぼくも何度かお世話になった旧来のサブスクForesightも読み放題となり、さらに新潮社が提供するフリーの電子書籍がどっさり読める。

昨年刊の『江藤淳と加藤典洋』に倣って、太宰治の『斜陽』で連載を始めたのだが、読み放題には同書の新潮文庫版も入っている。こうした意図せぬ “コラボ” は、老舗のサブスクならではだ。
連載タイトルの「遠く離れて」も、元は1967年の映画『ベトナムから遠く離れて』に始まり、蓮實重彦の『小説から…』(89年)、加藤典洋の『テクストから…』(2004年)と書き継がれた、名門シリーズになっている。

「キラキラしない」で生きるコツを考える連載なのに、こうして自分でハードルを上げてるんだから世話はないが(苦笑)、まぁお酒の熟成待ちみたいな感じで、見守ってあげてください。
初回に限り、新潮QUEでも(要登録だが)無料公開されているので、許可を得てこのnoteでも全文をお披露目する。アゴラへの転載もOKとのことなので、多くの人の目に触れて、契約を検討する一助になるなら嬉しい。

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第1回:焼酎の「冷」で行きたい夜もある
「もし、もし。大丈夫でしょうか。焼酎を召し上っているのですけど。」
『全集9』ちくま文庫、127頁
敗戦直後の日本の上流階級を描いた、太宰治の『斜陽』(1947年)にこんなせりふがある。弟が南方から復員したため、姉(主人公)は村で一軒だけの宿屋に「お酒」を分けてもらいにいくが、在庫がない。
やさぐれた弟は納得せず、「交渉が下手だからそうなんだ」と言い放ち、自ら宿屋に乗り込む。そのおかみがわざわざ家まで飛んできて、眼を「強く見はって、一大事のように、低い声で言う」のだから、相当だ。血相を変えて、というやつである。
とはいえ姉が訊き返すとおり、幸いにも「メチル」ではない。燃料用の有毒アルコールであるメチルを、当時は物不足から飲用に転ずる例が多く、失明など深刻な被害を出していた。弟はそうではなく、宿に残る焼酎を注文したというだけだ。

このシーンの意味が、長いことわからなかった。別に、焼酎くらい飲んでもええやん。日本酒がないんだから。
そうなるにも理由がある。1998年に大学に入ったぼくの場合、つきあいのコンパではなく自分で店を選んで飲む癖がつくのは、2001年ごろ。ちょうど芋焼酎ブームと呼ばれて、焼酎が「キラキラ」したお酒になった時期だった。
飲み方はだいたいロック。日本酒と同じ黄麹で仕込む富乃宝山が、臭みがなく女性も好きだと評判だった。麦焼酎では名前からしてステキな百年の孤独が、良心的な店さえ探せば、デフレもあり学生でも十分頼めた。

やっと太宰の書いていたことがわかるのは、2017年に失業して、いまの住まいに越してから。妙に周りに串焼きの店が多いので、ふらりと寄って試すのが趣味になった。
主に焼きとんの場合、そんな店は日本酒でなく焼酎も「冷」で出す。下受けの皿に乗せたグラスになみなみ注いで、最後に梅か葡萄のシロップを垂らすことが多い。つまり中身は90%以上がストレートの焼酎だが、なぜかそれを「梅割り」「葡萄割り」と呼ぶ。

日本酒の度数は、15度くらいが標準だ。対してキンミヤ焼酎には3段階あり、「冷」で出す際は25度のものが基本。ウィスキー(40度)などのショットとは違い、出る量がはるかに多いため、杯数を制限する店もある。
そんなものうまいのか。うまいのである。キンミヤは本来ならサワーで割るためのベースで、甲類焼酎だ。銘柄を指定して頼む、ブランドものの焼酎は乙類。甲類でこんなにうまいなら、「キラキラ化」のための工夫はなんだったのかと思うくらい、うまい。

いや、正確に言おう。十分にうまいのだが、そのうまさの成分は「味」だけじゃない。
いきなり1杯目から梅割りを頼む客は、まず見ない。ビールかホッピー、サワーで始めて、串を楽しんだ後の「〆」でのオーダーが多い。葡萄シロップも選べたりするあたり、ある意味でスイーツの役割なのかもしれない。
酔ってるしお腹も一杯だから、最後の梅割りや葡萄割りは、むしろ店ぐるみの雰囲気を楽しむために飲む。クイッと行けちゃう日本酒の冷ではなく、度数が高く舐めるようにしか飲めない焼酎だからこそ、頼めばのんびりその場所に居ることができる。

だから、飲んでるのは味だけじゃない。チルアウトした「時間」を飲むことで身体じゅうにほとばしるうまみが、焼酎の冷の本質だ。
時間をおいしくする——この場所に「もうちょっと居たい」と思わせるには、コストがかかる。厨房の活気や、耳に入るのが楽しい周囲の会話は、オンデマンドでは手に入らない。なにより店の常連になり、話に割り込める関係を得ることで、そのうまみは増していく。
逆に「キラキラ化」とは、ひとりで・口に入れるだけで・いますぐ、「おいしい!」と叫ばせる味を追求することだ。だからそれはしばしば、その人を個人として価値づける記号にもなる。
百年の孤独や魔王なら自室の棚に瓶を飾り、インスタライブで開ける姿がサマになる。逆に冷蔵庫からキンミヤを出してどくどく注ぎ、怪しい色までつけて飲み出す配信は、ちょっと怖そうだ。

もちろん、どちらかが正解じゃない。キラキラとおいしい酒も、まったりとおいしい酒もあっていい。問題は、片方だけが「優れている」かのように推される、ヘンな世相だ。
暮らしのアイテムをみなキラキラとさせれば、誰もが「ひとりで」快適に生きられる。そんな方向への進化を、ぼくらは長く近代化と呼んできたけど、令和に入ってその行きどまりが見えている。

『斜陽』の一家は地方への疎開組で、周りに腹を割っていっしょに飲める人がいない。だから焼酎に手を出した弟は、戦前からのインテリの苦悩を誰にもケアされぬまま、やがて孤独な自死に至る。
だけどもし、もう少しここで「時間を飲みたい」と思わせる場所があったら、どうだったろう?
小さなひとつの場面からでも、古典は現在の見え方を変えてくれる。誰もが「キラキラ」なんてできない中で、どうやっていまを持ちこたえるかのヒントも、そこにある。

葡萄割り。色も味も一級です
(ヘッダーは味の素のサイトより。料理の写真のモチーフは、戦時中の紀行文『津軽』かと)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年5月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。







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