「人との接触を、8割削減してください」。2020年4月、最初の緊急事態宣言で発せられたこのメッセージを、多くの人が憶えているだろう。あの数字は、いったいどこから出てきたものだったのか。
その答えが、初代コロナ担当大臣・西村康稔の手による『コロナとの死闘』(幻冬舎、2022年)に、当事者の視点から克明に綴られている。当時の政府がいかにひとりの研究者の数理モデルに依拠していたか、内側の視点から書かれた文献は意外なほど少ない。

SIRモデルという「最後の頼み」
新型コロナ流行の初期、感染拡大の予測モデルは国内で京都大学・西浦博教授のものしかなかった。感染症疫学の第一人者で、厚生労働省クラスター対策班の中核を担っていた人物である。8割削減という目標も、西浦氏の提言を基本的対処方針に書き込んだものだった。
頼れるのは西浦先生だけだった──西村氏は本書でそう率直に書き残している。日本のコロナ対策の出発点は、ひとりの研究者の数理モデルだったといって過言ではない。
簡単に解説する。西浦氏が用いていたのは「SIRモデル」と呼ばれる感染症数理モデルの基本形である。社会全体を「免疫のない人」「感染している人」「回復して免疫を得た人」の3つに分けて、その間の人の動きを計算する。世界中で広く使われている古典的手法で、国内では西浦氏が第一人者だった。
強い言葉と、たしなめる尾身先生
ただし本書は西浦氏に全面的に寄り添うばかりではない。
40万人死亡、今の感染者数は氷山の一角──こうした強烈なフレーズがメディアに切り取られ、独り歩きしていく場面があったと、西村氏は書き残している。前提条件をそのまま走らせれば、シミュレーションはいくらでも巨大な数字を吐き出す。条件設計こそが命なのだ。
分科会会長の尾身茂氏が、時折西浦氏をたしなめる場面もあったという。後に政府は、感染症の専門家と経済学者も含めた6つのグループに、同じ前提条件で再シミュレーションを依頼した。結果はいずれも似通った値に収束した。前提を揃えれば結論も揃う。科学コミュニケーションの根本がここに実践されている。
また、数理モデルが「予測」を担うとすれば、もう一つ重要だったのが「人をどう動かすか」だった。
行動経済学が専門の大阪大学大学院教授・大竹文雄氏との議論の中心にあったのが「ナッジ」である。罰則で縛るのではなく、情報の設計によって人が自然と望ましい行動を選ぶよう仕向ける手法だ。
東京オリンピック開催時に繰り返し発信された「自宅で仲間と感動を分かち合ってほしい」「居酒屋で乾杯することのないように」というメッセージ。あれは大竹氏との電話やメールでのやりとりを踏まえた、緻密な行動設計の産物だったという。感染症疫学と行動経済学。性質のまったく異なる2つの知が組み合わさって、日本のコロナ対策は組み立てられていた。
10年後、誰が手に取るか
歴史を振り返れば、戦時下や災害時に政府の中枢にいた者が、退任直後に自らの判断の根拠と迷いを一人称で書き残した例は決して多くない。多くは日記として死後に発見されるか、後年の回想録として記憶が薄められていく。
『コロナとの死闘』は、その意味で稀有な書物である。緊急事態宣言、給付金、専門家との対話、都知事との確執──個別の判断がどんな情報のもとに、誰との議論を経て下されたのか。一人称で同時代的に書かれた一次資料として、本書はやがて研究者に発掘されるべき性質の文献だ。
賛否は分かれていい。むしろ厳しい検証は不可欠だ。だが感情的に断罪する前に、まずは開いてみてほしい。10年後、20年後、誰かがこの時代を歴史として検証しようとするとき、本書はまず最初に手に取られる一冊となるはずだ。膨大な対話と判断の軌跡をこうして書き残してくれた西村康稔氏の労に、評者は心からの敬意を表する。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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『コロナとの死闘』(西村康稔 著)幻冬舎
■ 採点結果
【基礎点】 46点/50点(テーマ、論理構造、完成度、訴求力)
【技術点】 23点/25点(文章技術、構成技術)
【内容点】 23点/25点(独創性、説得性)
■ 最終スコア 【92点/100点】
■ 評価ランク ★★★★☆ 強く推奨できる優良書
■ 評価の根拠
【高評価ポイント】
一次資料としての価値:政府中枢にいた当事者が、退任直後に判断の根拠と迷いを一人称で書き残した例は稀有である。10年後、20年後の歴史的検証に必ず手に取られる射程を持った文献として位置づけられる。
専門家との対話の厚み:分科会会長・尾身茂氏との毎日1時間、約1年半に及ぶ議論の蓄積が記録されている。WHO西太平洋地域事務局長としてポリオ根絶を指揮した世界的権威との真剣勝負が、淡々と、しかし生々しく綴られている。
政策決定プロセスの可視化:「人との接触を8割削減」という基本的対処方針の根拠が西浦博教授のSIRモデルだった事実など、これまで断片的にしか知られていなかった意思決定の内幕が、当事者視点から克明に明らかにされている。また、感染症疫学(西浦・押谷)、ゲノム解析(脇田)、行動経済学(大竹のナッジ)など、性質のまったく異なる知を組み合わせて対策が組み立てられていた事実が浮き彫りにされている。
誠実な記述態度:尾身氏が西浦氏をたしなめる場面、シミュレーション前提の置き方をめぐる難しさなど、専門家への批判や自らの反省も含めて率直に書き残している点が評価できる。
【課題・改善点】
当事者性の限界:自らの政策判断を擁護的に書き残す性質上、一人称の語りに偏りが含まれる可能性は否めない。複数の当事者の証言と突き合わせて初めて立体化する性質の資料である。
読者層への訴求設計:政策の専門知や数理モデルに踏み込む箇所が多く、一般読者への入り口の設計には改善余地が残る。
■ 総評
未曾有のパンデミックの渦中で政府中枢に座り続けた政治家が、退任直後に自らの判断と迷いを一人称で書き残した、稀有な同時代資料である。専門家との膨大な対話、数理モデルへの依拠、行動経済学の知見の動員など、これまで断片的にしか語られてこなかった政策決定の内側が、当事者視点から克明に綴られている点は他に類を見ない。総括の限界はあるものの、10年後、20年後の歴史的検証に必ず手に取られる射程を持つ。強く推奨できる優良書である。








コメント
パンデミッククライシス
ゲンロンの石戸諭さんもコロナ禍中のとくに本当の意味で社会的弱者について書いていました。あれも残ってほしい。
一つの部屋に数人で住んでいるホストの記事だった。水商売の人達の事が書いていました。
「あんな仕事なくなればいい」という人も多いと思う。問題はそれではなくてその職種からどうやっても逃れられない人達の事だと思う。
接客業は軒並みダメになったでしょう?
感染症というのはそれが致命的。
アルコールがさらに重症化する事も。
私は昨日、パンデミックに習慣になったハイターを薄めた水で部屋中を拭き掃除をして食器を消毒して出かけました。
部屋が消毒されるとあの時期を思い出します。
「2020年私はその時いつも何をしていたか?」